凡例藤原 隆信
時代平安時代後期 - 鎌倉時代初期
生誕康治元年(1142年)
死没元久2年2月27日(1205年3月19日)
改名隆信→戒心(法名)
官位正四位下、左京権大夫
主君二条天皇→六条天皇→高倉天皇→安徳天皇→後鳥羽天皇→土御門天皇
氏族藤原北家長良流
父母父:藤原為経
母:美福門院加賀(藤原親忠
藤原 隆信(ふじわら の たかのぶ)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての貴族・歌人・画家。藤原北家長良流、皇后宮少進・藤原為経(寂超)の子。官位は正四位下・左京権大夫。 母・美福門院加賀の再婚相手である藤原俊成に育てられる(歌人・藤原定家は異父弟にあたる)。 若い頃は歌人として名を上げ、二条天皇や後鳥羽天皇に仕えた。寂蓮と並び評され、「若き歌読(詠み)の中にありがたく侍るかな」(『歌仙落書』)と評された。また、後述のように八条院にも仕えていた関係で女院と九条兼実の連絡役を務め[1]、その縁から義父・俊成を兼実を引き合わせ[2]、九条家と御子左家を結びつけるきっかけを作った[3]。しかし、和歌の評価は次第に下落し、新風を志す新古今歌人達のそれとは対照的に、平凡な作風に陥っていった。ただし、こうした見方を隆信を俊成の義子=御子左流の歌人とする考えに影響されており、嘉応2年(1170年)の建春門院北面歌合で判者である俊成が隆信の歌を否定的に評した際に六条藤家の藤原清輔がこれに反論し、以降の隆信はむしろ六条藤家系の歌人として活動するようになったとする指摘もある[3]。隆信が俊成の訓育を受けたことは、五条三位入道俊成と隆信の交わした元久本『隆信集』の旋頭歌の部に見える。その一方で、隆信が六条藤家出身の美福門院の庇護を受けて官界に入り、和歌の面でも六条藤家と結びついていたとする側面も看過できない[3]。 母方の祖母(伯耆局)が美福門院の乳母であったことから、久安5年(1149年)僅か8歳で美福門院の蔵人となり、翌久安6年(1150年)にはその所生の叡子内親王の御給で叙爵を受け、12歳で外祖父・親忠
経歴
建仁2年(1202年)出家。最終官位は前右京権大夫正四位下。浄土宗開祖・法然に帰依し、法名は戒心を名乗った。元久2年(1205年)2月27日卒去。享年64。 物語『うきなみ』や歴史物語『弥世継』を書いたとされるが、いずれも現存しない。隆信の私家集は、寿永元年(1182年)夏頃成立した寿永百首家集と元久元年(1204年)頃成立したものがある。
人物