藤原重頼
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 凡例藤原重頼
時代平安時代後期 - 鎌倉時代初期
生誕不明
死没不明
官位従四位下蔵人春宮少進宮内権大輔陸奥守相模守[1]
主君源頼朝頼家
氏族藤原北家勧修寺流
父母父:藤原重方、母:藤原清隆
兄弟重頼、能頼、忠方、葉室光雅室ら
源頼政娘・二条院讃岐
子重光、有頼、頼行、頼隆ら
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藤原 重頼(ふじわら の しげより)は、平安時代後期から鎌倉時代初期にかけての貴族鎌倉幕府御家人藤原北家勧修寺流中宮権大進藤原重方の長男。官位従四位下蔵人春宮少進宮内権大輔陸奥守相模守
経歴

葉室家の傍流にあたる受領層の家系に生まれる[2]が、父・重方は三事兼帯を務めた有能な実務官僚であった[1]。また血縁関係のある摂津源氏源頼政の娘・二条院讃岐を娶ったことが知られる[3]治承2年(1178年)6月に範子内親王斎院卜定所となっていた「中御門南、京極西」の重頼の邸宅が翌治承3年(1179年)3月に火災により焼失したが、この時宮内権大輔であった[4]

平家滅亡後、義兄弟にあたる源頼兼広綱らと共に鎌倉に仕え、源頼朝の側近の一人となる。文治元年(1185年)10月の勝長寿院落慶供養では会場設営以下の奉行を務めたほか、翌同2年正月の頼朝の鶴岡八幡宮参詣においても側近の一人として随行した[5]

また舅源頼政の所領であったと推測される若狭国遠敷郡松永・宮川両保[6]地頭となっており、文治4年(1188年)9月に若狭国衙に対する横妨を国司から訴えられているほか、平家没官領であった隠岐国犬来・宇賀両牧[7]の地頭をも務め、こちらでも同年11月に隠岐国司仲国(氏不詳)から国内における非法を訴えられている[8]。その後は、建久5年(1195年)12月に頼兼と共に鎌倉に下り永福寺薬師堂供養等に随行したほか、翌同6年(1196年)3月の東大寺供養にも側近の一人として頼朝に供奉している[9]。頼朝の死後、建仁元年(1201年)10月に源頼家の催した蹴鞠の判者として「相模守重頼」の名がみえていることから、その後相模守となっていた可能性がある[10]

没年は不明であるが、出家し「讃岐尼」と称された室・源頼政女が文暦2年(1235年)以前に若狭国宮川保の地頭となっていることが確認されている[11]
系譜

父:
藤原重方

母:藤原清隆

妻:二条院讃岐 - 源頼政の娘

男子:藤原重光

男子:藤原有頼


生母不明の子女

男子:藤原頼行

男子:藤原頼隆


脚注^ a b尊卑分脈
^ 父・重方は白河院近臣として権勢を振った藤原顕隆の次男・顕能の五男。
^ 祖父・顕能と舅・頼政は再従兄弟の関係にある。
^山槐記』治承2年6月27日条、『玉葉』同3年3月26日条。
^吾妻鏡』同年10月24日条・同正月3日条。
^ 福井県小浜市北東部。
^ 島根県隠岐郡隠岐の島町犬来・西ノ島町宇賀。
^ 『吾妻鏡』同4年9月3日条・同11月21日条。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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