藤原道隆
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 凡例藤原 道隆
藤原道隆(菊池容斎前賢故実』より)
時代平安時代中期
生誕天暦7年(953年
死没長徳元年4月10日995年5月12日
別名中関白
官位正二位摂政関白内大臣
主君冷泉天皇円融天皇花山天皇一条天皇
氏族藤原北家九条流
父母父:藤原兼家、母:藤原時姫
兄弟道隆、超子道綱、道綱母養女、道兼詮子道義道長綏子兼俊
高階貴子高階成忠娘)、藤原守仁娘、伊予守奉孝娘、橘清子橘好古娘?)、対御方藤原国章娘)
道頼頼親伊周定子隆家原子隆円、頼子、御匣殿周家周頼藤原妍子女房、好親平重義
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藤原 道隆(ふじわらの みちたか、天暦7年〈953年〉- 長徳元年4月10日995年5月12日〉)は、平安時代中期の公卿藤原北家摂政関白太政大臣藤原兼家の長男。官位正二位・摂政・関白・内大臣

花山天皇退位事件(寛和の変)で父兼家の意を受けて宮中で活動。甥にあたる一条天皇の即位後は急速に昇進した。娘・定子女御として入内させ、後に中宮となす。父・兼家が死ぬと後を継いで関白となる。朝政を主導するが僅か5年ほどで病に倒れ、嫡男伊周を後任の関白にと願うが、天皇からは許されず、薨御した。
経歴

父の兼家は円融天皇に道隆の同母妹の詮子を女御として送り込み、詮子は懐仁親王(後の一条天皇)を生んでいた。また、同じく同母妹の超子冷泉上皇の女御となり、居貞親王(後の三条天皇)を生んでいた。

永観2年(984年)8月、円融天皇が花山天皇に譲位すると、道隆は従三位に叙せられ、東宮となった懐仁親王の春宮権大夫に任じられる。花山天皇の外祖父は兼家の亡兄・伊尹で、伊尹の子の権中納言義懐が外叔父となり天皇を補佐していた。花山天皇と外戚関係を持つ義懐は脅威であり、そのため、兼家は孫の懐仁親王の早期の即位を強く望んだ。

寛和2年(986年)、兼家は策を講じ、寵妃を失って落胆していた花山天皇を三男の道兼が唆して内裏から寺へ連れ出し、騙すようにして出家させてしまった。天皇が消えて宮中が大騒ぎになっている間に、道隆は弟・道綱と共に神璽宝剣を東宮御所へ運び込む役割を果たした。そして、速やかに懐仁親王が即位した(一条天皇)。一条天皇の外祖父・兼家が摂政となり、嫡男・道隆は正三位権中納言から従二位権大納言へ一気に引き上げられた。永延3年(989年)2月内大臣を拝す。道隆はこれ以上官位が進むのを望まなかったようで、この間、永延元年(987年)10月、従一位に昇叙されるべき所を、嫡男・伊周の正五位下叙爵のために譲っている。

永祚2年(990年)正月、道隆は長女・定子を一条天皇の女御として入内させた。同年5月に病のため兼家が関白を辞すると、代わって関白、次いで摂政となった。7月、父・兼家が薨去する。

古事談』などによると、兼家は自分の後継をどの息子にするかを腹心の藤原在国(後の藤原有国)・平惟仲多米国平と諮った。在国は胆力のある三男・道兼をふさわしいとした。一方、惟仲、国平は嫡庶の序によって長男・道隆を推した。結局、後継は道隆となり、この話を知った道隆は在国をはなはだ憎み、関白職に就くと直ちに在国父子の官を奪った。帝の外舅となり、10月に定子を中宮とした。正暦2年(991年)内大臣の官を辞して道兼に譲った。正暦4年(993年)4月22日に再び関白となる。正暦6年(995年)正月、次女・原子を皇太子居貞親王の妃とし、後宮政策の強化を図った。

だが、それから程無く、道隆は病に伏し、長徳元年(995年)3月9日、一条天皇に請うて嫡子の内大臣伊周を内覧とし政務を委任し後継者にしようとしたが、病中の内覧のみ許され、伊周に関白の位を譲る事は許されなかった。4月3日、関白を辞し、伊周の関白就任を再度奏上したが叶わなかった。同6日出家し、10日薨去。享年43。死因については、当時流行して多数の貴族の命を奪った疫病ではなく、酒の飲みすぎなどからきた飲水病(糖尿病)の悪化が偶々この時期に重なったものと見られている。
没後

道隆没後、その遺志に反して弟・道兼が関白となり、以後、中関白家の急速な衰退が始まった。道兼は道隆の後を追うように没するが、もう1人の弟である道長が内覧に任ぜられ、これに反発する伊周と争った末に伊周は没落(長徳の変)、以降中関白家が政治の中枢に立つことは無かった。

そうした事情からか、道長やその嫡子の頼通は道隆の怨霊を恐れた。長元2年(1029年)、頼通が東三条殿にて病に倒れた際に陰陽師からはここは道隆が薨去した場所で、その鬼霊が病を惹き起こしているとして述べ、それを聞いた頼通は一時的に東三条殿を退避して、兼家の弟である深覚に調伏の祈念をさせている[2]
人物

大鏡』や『枕草子』などによれば、道隆は軽口を好んだ朗らかな人であったが、大酒飲みで不羈(「ふき」=自由気まま)な一面もあった。『大鏡』は、藤原済時朝光を飲み仲間とし、道隆らが酔っ払って人前で烏帽子を外した頭を晒した話や[注釈 1]、亡くなる際に念仏を薦められたが、極楽で飲み仲間の済時や朝光と再会することを喜んだ話[注釈 2]を伝えている。その一方で、容貌が端正だった上に、人への気配りが行き届く気の広さを持ち、薨去直前に宣命を伝えに来た蔵人頭源俊賢は、彼の優れた立ち居振る舞いを後々まで忘れずに口にかけたという。

『大鏡』の福足君と道隆の項では、兼家の六十歳の賀で舞台に上がってから舞うのを嫌がった甥の福足君(道兼の長男)を見て、道隆は福足君をとらえて共に舞い、誰もが感嘆したという。
官歴

康保4年(967年
10月11日従五位下に叙位11月:昇殿を許される

康保5年(968年
1月13日侍従に任官12月18日左兵衛佐に遷任

天禄2年(971年
12月15日右衛門佐に遷任

天禄4年改元して天延元年(973年
1月7日:従五位上に昇叙。右衛門佐如元か?

天延2年(974年
1月8日蔵人に補任2月7日伊予権介を兼任10月11日:左近衛少将に転任。


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