藤原道長
[Wikipedia|▼Menu]
.mw-parser-output .hatnote{margin:0.5em 0;padding:3px 2em;background-color:transparent;border-bottom:1px solid #a2a9b1;font-size:90%}

この項目では、平安時代の公卿について記述しています。奈良時代の貴族の同名の人物については「藤原道長 (南家)」をご覧ください。

 凡例藤原 道長
紫式部日記絵巻』より
時代平安時代中期
生誕康保3年(966年
死没万寿4年12月4日1028年1月3日
官位従一位摂政太政大臣准三后
主君円融天皇花山天皇一条天皇三条天皇後一条天皇
氏族藤原北家九条系御堂流
父母父:藤原兼家、母:藤原時姫
兄弟道隆超子道綱、道綱母養女、道兼詮子道義、道長、綏子兼俊
鷹司殿源雅信娘)、高松殿源高明娘)、源簾子(源扶義娘)、源重光娘、儼子藤原為光娘)、藤原?子
彰子頼通頼宗妍子顕信能信教通寛子威子尊子長家嬉子長信
特記
事項従五位下への叙爵を元服とみなし、主君は元服時の天皇からとしている。
後一条後朱雀後冷泉天皇の外祖父
テンプレートを表示

藤原 道長(ふじわら の みちなが、康保3年(966年)- 万寿4年12月4日1028年1月3日))は、平安時代中期の公卿藤原北家摂政関白太政大臣藤原兼家の五男。後一条天皇後朱雀天皇後冷泉天皇の三帝の外祖父
概要

関白藤原兼家の息子に生まれるが、道隆道兼という有力な兄に隠れ、一条朝前半まではさほど目立たない存在だった。しかし、兼家の死後に摂関を継いだ兄たちが相次いで病没すると、道隆の嫡男伊周との政争に勝って政権を掌握。さらに、長徳2年(995年長徳の変で伊周を失脚させ、左大臣に昇った。

一条天皇には長女の彰子を入内させ皇后に立てる。次代の三条天皇には次女の妍子中宮とするが、三条天皇とは深刻な対立が生じ、天皇の眼病を理由に退位に追い込んだ。長和5年(1016年)彰子の産んだ後一条天皇即位により天皇外祖父として摂政となる。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:151 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef