藤原貞憲
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 凡例藤原貞憲
時代平安時代後期
生誕保安4年(1123年
死没平治元年(1159年)?
官位従四位下権右中弁
主君後白河天皇二条天皇
氏族藤原南家貞嗣流
父母父:藤原通憲(信西)、母:高階重仲の娘
兄弟俊憲、貞憲、静賢澄憲覚憲、憲曜、成範勝賢是憲明遍脩範、光憲、寛敏、行憲、憲俊、寛兼、憲慶、阿波内侍?、藤原隆季室、藤原長方室、藤原親信室、少将有房室、藤原家房室、源為国
養兄弟:俊経
子藤原光憲、貞雅、貞覚、実玄、貞慶、貞円
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藤原 貞憲(ふじわら の さだのり)は、平安時代後期の貴族歌人藤原南家貞嗣流少納言・藤原通憲(信西)の次男。官位従四位下権右中弁
経歴

対策に及第したのち、少納言飛騨守を歴任する。正五位下右衛門権佐に叙任されたのち、後白河院政期初頭の保元3年(1158年保元の乱後権力を握っていた父・信西の差配により右少弁五位蔵人を兼ね三事兼帯の栄誉に浴す。

平治元年(1159年)5月に従四位下・権左少弁に叙任され、閏5月には上揩フ左少弁・藤原朝方を越えて権右中弁に昇任される。しかし、同年12月に平治の乱が発生して信西が敗死すると、信西の子息は流罪となり、貞憲は土佐国への配流に処された。一説では、出家するもまもなく追っ手の兵士の手で殺害されたともいう[1]。いずれにしても、翌永暦元年(1160年)には兄弟の俊憲成憲らが平安京に召し返されている一方で、貞憲にそのような形跡はなく、乱後まもなく没したか。

勅撰歌人として『千載和歌集』に和歌作品1首が採録されている[2]
官歴

注記のないものは『弁官補任』による。

時期不詳:
対策[3]

保延6年(1140年) 日付不詳:飛騨守[2]

時期不詳:少納言[3]

時期不詳:正五位下右衛門権佐摂津守

保元3年(1158年) 8月10日:右少弁、権佐守如元。11月26日:五位蔵人、止守(三事兼帯

平治元年(1159年) 5月1日:従四位下(臨時)、権左少弁、去佐。閏5月25日:権右中弁(依為四位、越左少弁朝方)。12月10日:解官(依父信西縁坐也)。12月13日:流罪土佐国[3]

系譜

尊卑分脈』による。

父:藤原通憲(信西

母:高階重仲の娘

生母不詳の子女

男子:藤原光憲

男子:貞雅

男子:貞覚

男子:実玄

男子:貞慶(1155-1213)

男子:貞円


脚注[脚注の使い方]^ 『弁官補任』
^ a b 『勅撰作者部類』
^ a b c 『尊卑分脈』

参考文献

『尊卑分脈 第二篇』
吉川弘文館、1987年

飯倉晴武校訂『弁官補任 第三』続群書類従完成会、1983年


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