藤原貞嗣
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 凡例藤原 貞嗣
時代奈良時代 - 平安時代初期
生誕天平宝字3年(759年
死没弘仁15年1月4日824年2月7日
別名貞継
官位従三位中納言
主君桓武天皇平城天皇嵯峨天皇淳和天皇
氏族藤原南家
父母父:藤原巨勢麻呂、母:藤原永手の娘
妻紀沙弥の娘、栄山諸依の娘、多治比公成の娘
子吉備[1]、直世、三藤、常守、安野、岑人、高岑、高仁
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藤原 貞嗣(ふじわら の さだつぐ)は、平安時代初期の公卿。名は貞継とも記される。藤原南家参議藤原巨勢麻呂の十男。位階従三位
経歴

延暦13年(794年従五位下叙爵し、延暦16年(797年民部少輔に任ぜられる。のち、備前守典薬頭を歴任するが、この間の延暦22年(803年)には暴風雨のため渡航に失敗し破損した遣唐使船の被害状況の調査を行っている[2]。延暦23年(804年左少弁、延暦25年(806年)従五位上・右中弁に叙任されるなど、桓武朝末は弁官を務めながら順調に昇進した。

平城朝では弁官を辞任するなど昇進が停滞する。嵯峨朝に入り、大同5年(810年)正月に正五位下に叙せられると、同年9月の薬子の変に際して近江守に任ぜられ、平城京にいた平城上皇と東国を分断する役割を担い、乱後の11月には従四位下と続けて昇叙された。

その後も、右京大夫皇后宮大夫を務める一方で、弘仁6年(815年従四位上、弘仁7年(816年蔵人頭と順調に昇進し、弘仁10年(819年参議に任ぜられ公卿に列す。弘仁11年(820年正四位下・右大弁に叙任される。弘仁年間中盤に右大臣藤原園人中納言藤原縄主藤原葛野麻呂ら大官が相次いで没し、中納言以上の公卿がわずか3名(藤原冬嗣藤原緒嗣文室綿麻呂)になっていたことから、弘仁12年(821年)の正月に参議から中納言への登用が行われた際に、良岑安世とともに中納言に昇進している。

日本後紀』の編纂にも参画したものの、完成を見ることなく弘仁15年(824年)1月4日薨去享年66。最終官位は中納言従三位兼行宮内卿
官歴

注記のないものは『日本後紀』による。

延暦13年(794年) 正月10日:従五位下[3]

延暦16年(797年) 3月27日:民部少輔

延暦17年(798年) 7月27日:備前守[3]

延暦22年(803年) 3月18日:典薬頭[3]

延暦23年(804年) 6月9日:左少弁

延暦25年(806年) 正月28日:兼丹後守、止典薬頭。2月14日:従五位上。2月16日:右中弁、丹後守如元

大同3年(808年) 日付不詳:止右中弁[3]

大同5年(810年) 正月7日:正五位下。9月10日:近江守。11月22日:従四位下

弘仁3年(812年) 2月10日:右京大夫

弘仁6年(815年) 7月13日:従四位上、皇后宮大夫皇后橘嘉智子

弘仁7年(816年) 11月:蔵人頭[3]

弘仁9年(818年) 正月10日:兼伊予守[3]

弘仁10年(819年) 3月1日:参議、大夫守如元[3]。7月:兼治部卿、大夫守如元[3]

弘仁11年(820年) 正月27日:右大弁[3]


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