藤原行長
[Wikipedia|▼Menu]

 凡例藤原行長
時代鎌倉時代初期
生誕不詳
死没不詳
別名中山行長
官位従五位下下野守[1]蔵人
主君土御門天皇
九条兼実
氏族藤原北家勧修寺流
父母父:藤原行隆
母:美福門院女房越前(藤原行兼の娘)
兄弟行房、行時、行長、信空、行方、葉室宗行、覚顕、源雅、重喜
テンプレートを表示

藤原 行長(ふじわら の ゆきなが)は、鎌倉時代初期の公家歌人藤原北家勧修寺流左大弁藤原行隆の子。中山行長とも。官位従五位下下野守蔵人関白九条兼実家司でもあった。
経歴

元久2年(1205年)の『元久詩歌合』に出詠するなど、漢詩文にすぐれていた。

兼好法師が「後鳥羽院の御時、信濃前司行長稽古の譽ありけるが(中略)この行長入道平家物語を作りて、生佛といひける盲目に教へて語らせけり」(『徒然草』226段)と記しているが、この「信濃前司行長」が藤原行長であるとする説がある。しかし藤原行長は信濃守となっていないため、行長を『平家物語』の作者とする説においては、この部分の記述を「下野前司行長」の誤りとする。

また、父・行隆が法然と関係の深い重源勧進した東大寺盧舎那仏像再建の造仏長官に任ぜられており、行長が仕えていた九条兼実は法然に帰依しており、さらに異母弟の信空は法然の弟子であった。このような関係性から、作品に底流する情緒的な浄土思想が特徴の『平家物語』は行長によって書かれたのではないか、と推測する説もある[2]
脚注[脚注の使い方]^尊卑分脈』(吉川弘文館、1958年)第2篇、113頁。
^ 梶村昇『法然のことば』(雄山閣、1978年)128頁。


記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:4400 Bytes
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef