藤原行成
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 凡例藤原 行成
菊池容斎画『前賢故実』より
時代平安時代中期
生誕天禄3年(972年
死没万寿4年12月4日1028年1月3日
官位正二位権大納言
主君一条天皇三条天皇後一条天皇敦康親王
氏族藤原北家世尊寺家
父母父:藤原義孝、母:源保光の娘
兄弟行成、三松俊興室、基忠
源泰清の娘(姉)、源泰清の娘(妹)、
橘為政の娘
子薬助、実経良経源顕基室、源経頼室、藤原長家室、行経、永親
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藤原 行成(ふじわら の ゆきなり/こうぜい[注釈 1]天禄3年〈972年〉 - 万寿4年〈1028年〉)は、平安時代中期の公卿藤原北家右少将藤原義孝の長男。官位正二位権大納言一条朝四納言(「寛弘の四納言」)の一。世尊寺家の祖。

当代の能書家として三蹟の一人に数えられ、その書は後世「権蹟」[注釈 2](ごんせき)と称された。書道世尊寺流の祖。
経歴
誕生から官途への出発

天禄3年(972年右少将藤原義孝の長男として生まれ、祖父の摂政藤原伊尹の猶子となる。しかし、祖父は同年中に薨去し、さらに天延2年(974年)父・義孝も急死したため、一族の没落を受けて外祖父・源保光の庇護を受けて成長する。源保光は文章生から式部大輔を務めた紀伝道の学者である一方、太政官の行政事務の中枢である弁官を歴任し蔵人頭も務めるなど、漢学に造詣が深く、内廷・外廷(太政官)両方の吏務に通じていたらしく、この学問や知識をもって行成に十分な教育を施したと想定される[1]

天元5年(982年)桃園邸で元服し、永観2年(984年外戚関係(従兄弟)にある春宮・師貞親王の年爵によって従五位下叙爵する。同年、師貞親王が即位花山天皇)すると、行成は寛和元年(985年侍従に任ぜられ、翌寛和2年(986年昇殿を許されるなど、天皇の身近に仕えた。しかし、同年6月に右大臣藤原兼家の策謀により花山天皇は出家譲位してしまい(寛和の変)、行成は外戚の地位を失った。この事件によって行成は少なからず影響を受けたと想定されるが、その後も寛和3年(987年)従五位上、正暦2年(991年正五位下、正暦4年(993年従四位下と位階の上ではそれなりに立身を続ける。これについては、行成の家柄・資質のほか、外祖父である権中納言・源保光の庇護も働いていたと考えられる[2]。しかし、従四位下への叙位によって左兵衛権佐を解かれた後、遙任備後介のみを帯びてしばらく他の京官に任じられた形跡がなく、任官面での不遇は否めなかった[3]。なお、この間の永祚元年(989年)には源泰清の娘と結婚している。
一条天皇の蔵人頭

長徳元年(995年蔵人頭権左中弁・源俊賢参議に昇進し、後任として行成が蔵人頭に任ぜられる。これについては、前任の源俊賢が一条天皇に対して行成を推挙したため、地下人から一躍蔵人頭に抜擢されたとの逸話がある[4]。実際には殿上であったか、少なくとも長く地下に沈淪していた状態ではないと考えられるが、備後介のみを帯びたほぼ散位に等しい行成の登用は、人々に驚きの目をもって迎えられたと想定される。また、この抜擢については源俊賢の推挙が大きいが、これまで行成が積み重ねてきた真面目な努力が、一条天皇をはじめ人々の認めるところとなっていたことも背景にあったと考えられる[5]。なお、行成は蔵人頭になってすぐには弁官になっていないが、さすがに異例の抜擢によって蔵人頭になった上に、すぐに弁官を兼ねるのは憚られたらしい[6]。しかし、ここで行成は力量を認められ、翌長徳2年(996年)4月になって権左中弁に任官している。さらに同年8月に正左中弁の藤原忠輔が右大弁に昇ると、後任に源相方が任ぜられるが、一条天皇の意向で正左中弁・源相方と権左中弁・藤原行成が入れ替えられ、行成は上揩フ相方を差し置いて正左中弁に昇格した[7]

長徳4年(998年)正月にこれまでの精励ぶりを一条天皇から賞されて臨時に従四位上に叙せられる。7月に左大弁・源扶義が没したため右大弁のポストが空くが、これに対して再び行成と源相方が競合する。源相方が右大弁を望んでいることを相方の縁者でもある左大臣・藤原道長から告げられると、行成は以下の通り競望の不条理に反論し[8]、道長もこの反論を容認した[9]

中弁から大弁への転任は、必ずしも位階によらず任日の前後による場合もある(位階は相方の方が上もしくは先叙だが、中弁への任官は行成が先)。

自分は蔵人頭で将来は参議を望む官職にある。ここで大弁に任ぜられ、参議昇任後も大弁を兼任することを望む(右大弁は参議や蔵人頭が兼任する例が多い)。

現今の新制により、受領の任期を終えて2年以内に官に納める物が未済の者は次の官職に任用してはならない。相方は播磨守在任中十分に役目を果たさず、任期終了後3年にして官へ未済の事が多い。

10月には行成は右大弁に昇格し、日記に「時に年27。年未だ30に及ばずして大弁に任ずるは、貞信公(藤原忠平)21・八条大将(藤原保忠)年25のみなり。」と誇らしげに記している[10]。なお、行成の後任の左中弁には高階信順が任ぜられており、この人事の前に相方は病没したとみられる[11]

こうした中で、長保元年(999年)11月に藤原道長の長女・藤原彰子が一条天皇の後宮に入内し女御となる。そして12月に太皇太后昌子内親王が崩御したことをきっかけに、道長は第一皇子・敦康親王を産んでいる中宮藤原定子に対抗するために一帝二后となる彰子の立后を希望。行成は道長の意向を受けて一条天皇に対して彰子立后の意見具申を行った[12]

現在の藤原氏出身の后妃は、東三条院(藤原詮子)・皇太后(藤原遵子)・中宮(藤原定子)と何れも出家しており神事を勤めない。

后位に対する納物には神事に用いるべき公費が含まれているが、神事が行われず全て私用に費やされている。

藤原氏出身の皇后が所掌する大原野祭について、現在は氏長者・藤原道長が代行しているが、これも神の本意に叶わぬ「神事違例」で、行成自身も藤原氏の末葉の身として氏の祭のことを心配している。

諸司(神祇官陰陽寮か)より「神事違例」の卜占が出ている。

既に永祚年間に二后並立の前例がある(円融皇后・藤原遵子と一条中宮・藤原定子)。

中宮(藤原定子)は正妃であるが、既に出家して神事を勤めず、(天皇の)私恩によって職号を止めず封戸も納めている。従って重ねて彰子を皇后に立て神事を掌るようにさせるのがよいのではないか。

行成の具申に対して一条天皇は許諾の意向を示す。このことについて道長から「行成が蔵人頭として天皇の身近に仕えるようになって以来、折に触れて自分のために取り計らっていてくれたことは知っていたが、感謝の気持ちを示すことができなかった。


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