この項目では、平安時代の后妃について説明しています。現代の宗教学者については「藤原聖子 (宗教学者)」をご覧ください。
藤原 聖子
第75代天皇后
皇后大治5年2月21日(1130年4月1日)
(中宮)
皇太后永治元年12月27日(1142年1月25日)
皇嘉門院
院号宣下久安6年2月27日(1150年4月3日)
誕生保安3年(1122年)
平安京
崩御養和元年12月4日(1182年1月10日)
陵所月輪南陵
諱聖子(きよこ、せいし)
戒名清浄恵、蓮覚
氏族藤原氏(北家御堂流)
父親藤原忠通
母親藤原宗子
配偶者崇徳天皇
入内大治4年1月16日(1129年2月6日)
養子女近衛天皇
身位女御→皇后(中宮)→皇太后
立后前位階従三位
大治3年11月9日(1128年12月2日)
宮廷女房皇嘉門院別当
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藤原 聖子(ふじわら の せいし/きよこ、1122年〈保安3年〉- 1182年1月10日〈養和元年12月4日〉)は、第75代天皇・崇徳天皇の皇后(中宮)。近衛天皇の養母。女院。院号は皇嘉門院(こうかもんいん)。
摂政関白太政大臣・藤原忠通の長女、母は北政所従一位・藤原宗子(権大納言・藤原宗通の娘)。忠通の嫡妻腹の子女は彼女一人である。 大治4年(1129年)、崇徳天皇に入内して女御となり、同5年(1130年)に中宮に冊立。時に父忠通は摂政で、在任中の摂関の女の入内は、後冷泉天皇の皇后・寛子以来、八十年ぶりのことであり、忠通は聖子の入内に摂関家再興の望みを託した。しかし、父の希望に反して、聖子は一人の子女も生まなかった。その代わり、鳥羽法皇の皇子・體仁親王(後の近衛天皇)の准母となり、體仁親王が即位した永治元年(1141年)皇太后となった。久安6年(1150年)院号宣下を受け、皇嘉門院と号した。 保元元年(1156年)の保元の乱には父・忠通と夫・崇徳上皇が敵に分かれて戦い、敗れた崇徳上皇は讃岐国へ配流された。板挟さみとなった聖子は同年出家し、清浄恵(せいじょうえ)と号した。長寛元年(1163年)、髪をすべて剃る再出家をし、蓮覚(れんがく)と号した。 父の没後は猶子としていた異母弟の九条兼実の後見を受けた。また治承4年(1180年)に兼実の嫡男・良通を猶子として、忠通伝来の最勝金剛院 崇徳院は女房兵衛佐局を深く寵愛し、聖子とは疎遠であったという説があるが、これは的確でない。崇徳天皇の在位中、聖子は常に天皇と同殿しており、譲位後も、しばしば上皇が聖子の御所へ御幸、もしくは聖子が上皇御所へ行啓している。ただし、保延6年(1140年)9月2日、兵衛佐局が崇徳の第一皇子(重仁親王)を産むと、聖子とその父である関白・忠通は不快感を抱いたという(『今鏡』第八、腹々の御子)。 保元の乱の後、崇徳院が讃岐国へ配流になった際に兵衛佐局が同行したのに対し、皇嘉門院が同行せずに都に留まったのは、立場の相違に由来するものであって、寵愛の程度によるものではない。たとえば、後世の後鳥羽上皇の配流に際しても、随行したのはそれほど身分が高くない女房で、院の寵愛篤い修明門院はお供していない。貴人の配流に際し、身の回りの世話をするために、近侍していた人々がお供をした。皇嘉門院のように、只今の女院、かつて天皇の正妃・母后として中宮・皇太后の尊位にあった女性は、上皇とほぼ同等の身位にあり、上皇に随侍する立場にない。女院は、同行しないというより、通例では同行できないのである。 父・忠通は摂関家の体面を粉々に潰した保元の乱において、辛うじて勝者となっている。忠通の後ろ盾によって、保元の乱以後も皇嘉門院は朝廷で尊重された。 日付は旧暦。
生涯
夫婦関係
略歴月輪南陵
保安3年(1122年):生誕(父は関白藤原忠通・母は北政所宗子)
大治3年(1128年)11月9日:入内に先立ち従三位に叙階
大治4年(1129年)
1月16日:崇徳天皇に入内
1月16日:女御宣下
大治5年(1130年)2月21日:中宮冊立
永治元年(1141年)12月27日:皇太后
久安6年(1150年)2月27日:院号宣下。皇嘉門院と号す
久寿2年(1155年)8月14日:母・宗子没
保元元年(1156年)
7月10日:保元の乱
7月23日:崇徳院、讃岐国へ遷幸
10月1日:出家・削髪
長寛元年(1163年)12月26日:再出家・剃髪
長寛2年(1164年)
2月19日:父・忠通薨去
8月26日:崇徳院、讃岐で崩御
仁安2年(1167年)5月23日:封戸を辞退
治承元年(1177年)7月29日:崇徳院の諡号を奉る(それ以前は讃岐院)
養和元年(1181年)12月4日:崩御
関連項目
皇嘉門院別当
新田義兼
表
話
編