藤原経清
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この記事で示されている出典について、該当する記述が具体的にその文献の何ページあるいはどの章節にあるのか、特定が求められています。ご存知の方は加筆をお願いします。(2021年7月)

 凡例藤原 経清
時代平安時代中期
生誕不明
死没康平5年9月17日1062年10月22日
別名亘権守、亘理権大夫
官位陸奥権守従七位下従五位、散位、修理大夫?
氏族奥州藤原氏
父母父:藤原頼遠、母:平国妙姉妹
兄弟経清、連国[注釈 1]、重久[2]、頼久[2]、遠久[2]
安倍頼時娘・有加一乃末陪
清衡、刈田経元[注釈 2]、経光[4]平成衡母?[5]
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藤原 経清(ふじわら の つねきよ)は、平安時代中期の陸奥国亘理郡豪族。『尊卑分脈』によると藤原秀郷の6代後裔。
経歴

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出典検索?: "藤原経清" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2021年7月)

経清は元来源頼義の弟・源頼清の郎従であり、頼清が陸奥守として長久年間(1040年?1044年)に赴任した折に陸奥国に下向し、亘理郡を拝領したという[2]

陸奥権守従七位下に叙せられたのち散位。亘理権大夫(わたりのごんのたいふ)と称したと言われている(大夫は五位の官人の異称)。『尊卑分脈』によれば「亘権守・亘理権大夫」とあるが、「権大夫」という職位がどんな役職であるか、実際にどのような官職であったか判明していない。ただ、子・清衡も権大夫[6]であったこともあり、地位を証明する信頼の置ける史料は現存していないが、在庁官人として陸奥国府多賀城に勤務していたと見られている。

その名が登場する史料は、長年『陸奥話記』のみとされており、藤原姓も私称ではないかとされてきたが、永承2年(1047年)の五位以上の藤原氏交名を記した『造興福寺記』に「経清六奥(六奥は陸奥の意)」と記されている。この史料によると、少なくとも藤原氏の一族の係累に連なる者と中央の藤原氏から認められており、従五位に昇叙し散位であったようである。

長久元年(1040年)より数ヵ年国府の推挙により、修理大夫として在京し、陸奥守藤原登任の下向に同行したとの説がある。俘囚長で奥六郡の支配者である安倍頼良(頼時)の娘(史料では「有加一乃末陪」と記載されている)を妻に迎え、曰理(わたり、現宮城県亘理郡)の鹿島神社(現亘理町逢隈字鹿島)付近に居を構え、荘園経営を行うと同時に交通の要衝を支配し関所に金銀山米銭寺という寺社を建立し、そこを通過するものから交通税を課し財力を蓄えていたとされ[7]、さらに平国妙の外戚と言う記述が『奥州御舘系図』に見えることから2?3代以前から奥州に土着していたとするのが自然であるとする考えもある[8]

安倍氏が朝廷への貢租を怠る状態になったため、永承6年(1051年)に、陸奥守・藤原登任は安倍氏征討の兵を出したが鬼切部の戦いで敗れた(前九年の役の始まり)。この戦いで経清は安倍氏側に属していたが、翌永承7年(1052年)に、更迭された登任の後任として源頼義が陸奥守に任じられ、大赦によって許された頼時が朝廷に帰服すると、経清もまた頼義に従った。


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