藤原範季
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 凡例藤原 範季
時代平安時代末期 - 鎌倉時代前期
生誕大治5年(1130年
死没元久2年5月10日1205年5月30日
官位従二位式部権少輔
従一位左大臣
主君後白河法皇後鳥羽天皇
氏族藤原南家高倉流
父母父:藤原能兼
母:高階為賢または高階為時の娘
養父:藤原範兼
兄弟範兼、範季
藤原範能の娘
平教子平教盛の娘)
阿御前(藤原範能の娘)
子範時、重子範茂、範資、範弘、季子、藤原範宗室、高階経仲室、隆重室、
吉田資経室、藤原範家室
特記
事項順徳天皇の外祖父
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藤原 範季(ふじわら の のりすえ)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての公卿藤原南家高倉流の祖。式部少輔・藤原能兼の子。官位従二位式部権少輔後白河法皇近臣順徳天皇の外祖父。
生涯

保延5年(1139年)10歳の時に父・能兼が没し、兄・範兼の養子になる。文章得業生から越後大掾を経て、久寿元年(1154年対策に及第し、翌久寿2年(1155年大膳亮に任じられる。保元2年(1157年)には六位蔵人に補せられて後白河天皇に仕え、翌保元3年(1158年従五位下叙爵された。

経緯は明らかでないが、平治元年(1159年)の平治の乱で没落した源義朝の六男・範頼を引き取って自らの子・範資と一緒に養育している。長寛3年(1165年)4月に範兼が死没すると、残された子の範子兼子範光らを引き取った(範光には実の娘である季子を嫁がせて婿にしている)。

後白河院政期前半は近江守常陸介上野介など受領職を歴任。安元元年(1175年)式部権少輔として京官に復すが、翌安元2年(1176年)1月に陸奥守を兼任すると、3月には藤原秀衡の後任として鎮守府将軍も兼ねて4月に陸奥国へ下向。治承2年(1178年)10月以前に帰洛した。

九条兼実の忠実な家司である一方、兼実が嫌う平家とも繋がりを持ち、平清盛の姪である教子を正妻に迎え、清盛の義弟である能円に姪(義妹)である範子を娶せている。

治承4年(1180年高倉天皇の第四皇子・尊成親王が誕生し、範季が邸に迎えて養育にあたった。また、姪の範子・兼子がその乳母となっている。養和2年(1182年従四位下、翌寿永2年(1183年)正月に従四位上に昇叙。同年7月に安徳天皇が平家一門と共に都を落ちると、後白河法皇によって新たな帝の選定が行われ、8月に範季が養育する4歳の尊成親王が擁立されて即位した(後鳥羽天皇)。範季はその践祚にあたって奔走したという。元暦2年(1185年木工頭皇太后宮亮に任じられる。


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