凡例藤原 秀郷
「藤原秀郷龍宮城蜈蚣射るの図」
(月岡芳年画『新形三十六怪撰』より)
時代平安時代中期
生誕仁和元年(885年)?[1]
または
寛平3年(891年)?[2]
死没天慶10年2月(947年2月)[1]
または
天徳2年2月17日(958年3月10日)[3]
または
正暦2年9月25日(991年11月4日)[2]
別名俵藤太、田原藤太(通称)
神号田原八幡宮[2]
戒名東明寺殿野州大守東秀関郷大居士[2]
墓所群馬県伊勢崎市赤堀今井町2-1344-1の宝珠寺
栃木県佐野市新吉水町254の藤原秀郷公墳墓(清水大同山東明寺跡)
鳥取県東伯郡三朝町俵原
官位従四位下、下野守、武蔵守、鎮守府将軍
贈正二位
氏族称藤原北家魚名流
父母父:藤原村雄、母:下野掾鹿島直行の娘
兄弟兄弟:秀郷、宗郷
藤原 秀郷(ふじわら の ひでさと、.mw-parser-output .lang-ja-serif{font-family:YuMincho,"Yu Mincho","ヒラギノ明朝","Noto Serif JP","Noto Sans CJK JP",serif}.mw-parser-output .lang-ja-sans{font-family:YuGothic,"Yu Gothic","ヒラギノ角ゴ","Noto Sans CJK JP",sans-serif}旧字体:藤󠄁原 秀ク)は、平安時代中期の貴族、豪族、武将。下野大掾・藤原村雄の子。別名は、俵(田原)藤太。
下野掾であったが、平将門追討の功により従四位下に昇り、下野・武蔵二ヶ国の国司と鎮守府将軍に叙せられ、勢力を拡大。源氏・平氏と並ぶ武家の棟梁として多くの家系を輩出し、近代に正二位を追贈された。
室町時代に「俵藤太絵巻」が完成し、近江三上山を八巻きした大百足退治の伝説で有名。滋賀県大津市の瀬田唐橋に銅像がある。
出自の娘との間にもうけたのが下野権守(少掾とも)・藤原豊沢であり、豊沢が下野史生・鳥取豊後の娘との間にもうけたのが下野大掾・藤原村雄であり、村雄と下野掾・鹿島直行の娘との間に生まれたとされる[6]。
しかし、太田亮などによると下野国史生郷の土豪・鳥取氏が藤原氏に仕えてその系譜を冒したという説もあり[7][8]、古代から在庁官人を務めた秀郷の母方の姓を名乗ったとする説もあるが定かではない。この系譜仮冒説では、豊沢の父とされる藤成の系譜上での位置づけが不安定であることと、魚名から秀郷までのわずか5代で200年が経過していることが不審とされている[7]。
俵 藤太(田原 藤太、読みは「たわら の とうだ」、「たわら の とうた」、藤太は藤原氏の長、太郎の意味)という名乗りの初出は『今昔物語集』巻25「平維茂 藤原諸任を罰つ語 第五」であり、秀郷の同時代史料に田原藤太の名乗りは見つかっていない。由来には、相模国淘綾郡田原荘(秦野市)を名字の地としていたことによるとする説、幼時に山城国近郊の田原に住んでいた伝説に求める説、近江国栗太郡田原郷に出自した伝説に求める説など複数ある。 生年は、「佐野記」によると仁和元年(885年)[1]、「田原族譜」によると寛平3年(891年)とされるが[2]、真偽は不明である。 秀郷の先祖は下野国誌という立場上、朝廷に反抗的ながらも弓馬術に長けた蝦夷と接点が深かったと思われ、その後の秀郷流流鏑馬などの武芸に発展する下地があったとされている[9]。 秀郷は下野国の在庁官人として勢力を保持していたが、延喜16年(916年)隣国上野国衙への反対闘争に加担連座し、一族17(もしくは18)名とともに流罪とされた。しかし王臣子孫であり、かつ秀郷の武勇が流罪の執行を不可能としたためか服命した様子は見受けられない[注 1]。さらにその2年後の延長7年(929年)には、乱行の廉で下野国衙より追討官符を出されている。唐沢山(現在の佐野市)に城を築いた。 天慶2年(939年)、平将門が兵を挙げて関東8か国を征圧する(天慶の乱)と、甥(姉妹の子)[4]である平貞盛・藤原為憲と連合し、翌天慶3年(940年)2月、将門の本拠地である下総国猿島郡を襲い乱を平定。この時、秀郷は宇都宮大明神(現・宇都宮二荒山神社)で授かった霊剣をもって将門を討ったと言われている。また、この時に秀郷が着用したとの伝承がある兜「三十八間星兜」(国の重要美術品に認定)が現在宇都宮二荒山神社に伝わっている[12][注 2]。 複数の歴史学者は、平定直前に下野掾兼押領使に任ぜられたと推察している[注 3]。この功により同年3月、従四位下に叙され、11月に下野国(栃木県)の国司である下野守に任じられた。さらに武蔵国(東京都・神奈川県・埼玉県)の国司である武蔵守、および鎮守府将軍も兼任した[注 4]。 将門を討つという大功を挙げながらも、それ以降は史料にほとんど名前が見られなくなる。没年は「田原族譜」によると正暦2年9月25日(991年11月4日)に101歳[2]で亡くなったとされるが、「系図纂要」によると天徳2年2月17日(958年3月10日)[3]に亡くなったとされる。
生涯