凡例藤原福当麻呂
時代平安時代初期
生誕不詳
死没不詳
官位従五位下、肥前守
主君嵯峨天皇
氏族藤原北家
父母父:藤原内麻呂、母:坂上登子
兄弟真夏、冬嗣、秋継、桜麻呂、福当麻呂、長岡、率、愛発、大津、衛、助、収、平○○、恵須子、緒夏、紀有常室
子諸数、世数、数長、数守、依作、貞数、賀登子
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藤原 福当麻呂(ふじわら の ふたきまろ/ふたぎまろ)は、平安時代初期の貴族。藤原北家、右大臣・藤原内麻呂の五男。官位は従五位下・肥前守。目次 大同5年(810年)正月に従六位上から三階昇叙されて従五位下に叙爵し、同年9月に発生した薬子の変に伴い右少弁に補任される。弘仁3年(812年)典薬頭。弘仁4年(813年)常陸介に転じると、翌弘仁5年(814年)に国守の菅野真道の薨去を受けて後任として常陸守に昇進、その後も時期は不明ながら肥前守を務める等、嵯峨朝中期は主に地方官を歴任した。 本人は従五位下にとどまるが、曾孫の扶幹が公卿に昇っている。 『日本後紀』による。 『尊卑分脈』による。
1 経歴
2 官歴
3 系譜
4 脚注
5 出典
経歴
官歴
時期不詳:従六位上
大同5年(810年) 正月10日:従五位下。9月10日:右少弁
弘仁3年(812年) 正月12日:典薬頭。10月:辞官(父服喪)。11月28日:復本官
弘仁4年(813年) 正月10日:常陸介
弘仁5年(814年) 7月1日:常陸守
時期不詳:肥前守[1]
系譜
父:藤原内麻呂
母:坂上登子 - 坂上苅田麻呂の娘
生母不詳の子女
男子:藤原諸数
男子:藤原世数
男子:藤原依作
男子:藤原真数または貞数
男子:藤原数守
男子:藤原数長
女子:藤原賀登子 - 仁明天皇後宮
脚注^ 『尊卑分脈』
出典
森田悌『日本後紀 (中)』講談社学術文庫、2006年
『尊卑分脈 第一篇』吉川弘文館、1987年
更新日時:2020年12月13日(日)14:07
取得日時:2021/04/28 09:42
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