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藤原為家(菊池容斎『前賢故実』より)
時代鎌倉時代中期
生誕建久9年(1198年)
死没建治元年5月1日(1275年5月27日)
改名三名(幼名)→為家→融覚または静真[要出典](号)
別名中院禅師、冷泉禅門、民部卿入道
墓所京都府京都市右京区嵯峨二尊院門前善光寺山町2厭離庵
官位正二位、権大納言
主君順徳天皇→仲恭天皇→後堀河天皇→四条天皇→後嵯峨天皇→後深草天皇→亀山天皇
氏族藤原北家御子左家
父母父:藤原定家、母:藤原実宗の娘
養父:西園寺公経
兄弟光家、定円、因子、香子、為家、覚源、西園寺公相室
妻宇都宮頼綱の娘
平度繁の養女・阿仏尼
子二条為氏、京極為教、為顕、冷泉為相、冷泉為守、源承、慶融、隆俊、最瑜、良瑜、為子
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藤原 為家(ふじわら の ためいえ)は、鎌倉時代中期の公家・歌人。藤原北家御子左流、正二位・権中納言藤原定家の三男。官位は正二位・権大納言。 御子左家の嫡男として生まれた為家は、元久2年(1205年)に母方の祖父・藤原実宗邸で元服を行い、伯父・西園寺公経の猶子となる。若い頃は蹴鞠に熱中し、その縁で同好の順徳天皇に目を掛けられるようになった。ところが承久3年(1221年)の承久の乱の戦後処理で順徳院が佐渡に配流されると、その供奉者の一人として院から同行を希望された為家は掌を返すようにこれを辞退している(『承久記』ほか)。なおこの為家以後、その嫡流の二条家は和歌と共に鞠道においても重きをなし、飛鳥井流に並ぶ御子左流を形成した。
経歴