藤原為信_(鎌倉時代)
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 凡例藤原 為信
時代鎌倉時代後期
生誕宝治2年(1248年[1][2]
死没不明[1][2]
改名為行、為信[3]
戒名法性寺寂融[1][2]
官位従三位刑部卿[1][2]
氏族藤原北家国経[3]
父母父:藤原伊信[1]
兄弟為信、禅信[3]
子為理、深寛、尊道、宗寿、実導、長楽門院民部卿、豪信[3]
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藤原 為信(ふじわら の ためのぶ)は、鎌倉時代後期の公卿画家歌人
略歴

生家は藤原北家国経流の嫡家で、右馬頭伊信の子。初名は為行。文応2年(1261年)14歳で叙爵文永3年(1266年中務少輔に任じ、以後左京権大夫左馬権頭刑部卿を歴任。政治的には安嘉門院大覚寺統に近かったとする説がある。嘉元元年(1303年皇太子富仁親王読書始において、関白二条兼基の陪膳役を務めている。また一時期鎌倉に下向していた時期があり、関東で詠んだとされる和歌が数首残る。同じく在鎌倉の冷泉為相二条為道と交流があった[1][4]

嘉元2年(1304年)57歳の時、散位従三位に進み、祖父以来の公卿に列する。嘉元4年(1306年)出家して官を辞す[1][2]。没年は知られないが、薨去の際に存命だった嫡男の為理は正和5年(1316年)に没しているため、それ以前ということになる[5]
文化活動

為信の家は高祖父隆信以来似絵を伝えた家系であり、曾祖父信実、祖父為継もまた隆信派の名人として知られた。為信自身も似絵をよくし、代表作に『賀茂祭絵詞』『天子影[注 1]がある。歌人としては歌集『為信集』がある[1][2][3]。子には隆信流を継承した豪信[注 2]浄土宗西山派の僧として著名な実導がいる[2][3]
官歴

※出典のない項目はいずれも『公卿補任嘉元二年条による[7]

文応2年(1261年):従五位

文永3年(1266年9月26日中務少輔

文永8年(1271年1月5日:従五位上、9月27日:中務少輔

弘安4年(1281年4月6日正五位

弘安8年(1285年)1月5日:従四位

弘安11年(1288年2月21日:従四位上

正応2年(1289年4月17日左京権大夫8月1日左馬権頭

正応4年(1291年2月25日正四位下、止左京権大夫

正安2年(1300年刑部卿

嘉元2年(1304年3月22日従三位

嘉元4年(1306年9月7日:出家[8]

脚注[脚注の使い方]
注釈^ 『天子摂関御影』のうち「天皇巻」を為信が描いたという。なお花園天皇後醍醐天皇については子の豪信の筆である[6]
^尊卑分脈』は豪信は、為信の嫡男為理の養子となったとする[3]

出典^ a b c d e f g h 米倉 1991.


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