藤原清経
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 凡例藤原 清経
時代平安時代前期
生誕承和13年(846年
死没延喜15年5月22日[1]915年7月7日
官位従三位参議
主君清和天皇陽成天皇光孝天皇宇多天皇醍醐天皇
氏族藤原北家長良流
父母父:藤原長良、母:藤原乙春
兄弟国経遠経基経高経有子弘経淑子高子、清経、栄子
妻従三位藤原栄子
藤原貞守の娘
元名、元善、元忠
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藤原 清経(ふじわら の きよつね)は、平安時代前期の公卿藤原北家権中納言藤原長良の六男。官位従三位参議
経歴

衛門少尉・大尉を経て、貞観11年(869年従五位下叙爵し、甥に当たる皇太子・貞明親王の春宮大進に任ぜられた。貞観18年(877年)の貞明親王の即位(陽成天皇)後まもなく、従五位上・右近衛権少将次いで左近衛権少将に叙任される。陽成朝では近衛少将に蔵人を兼ねて天皇の身近に仕え、この間元慶6年(882年正五位下に叙せられている。

光孝朝から宇多朝にかけても引き続き左近衛少将・右近衛中将と武官を務め、仁和2年(886年従四位下寛平6年(894年)従四位上に昇叙されている。

寛平9年(897年醍醐天皇の即位後しばらくして右兵衛督に転じ、昌泰3年(900年)には先に参議となっていた甥・忠平の譲りにより参議に任ぜられ公卿に列している。延喜4年(904年正四位下

延喜15年(915年)正月に従三位に昇るが、同年5月22日薨去。享年70。最終官位は参議従三位行右衛門督。
官歴

貞観8年(866年)正月13日:右衛門少尉

貞観9年(867年) 正月12日:右衛門大尉

貞観11年(869年) 正月7日:従五位下(この時の官職は左衛門大尉[2])。2月11日:春宮大進

貞観18年(876年[注釈 2]) 12月27日:右近衛権少将

貞観19年(877年) 正月3日[3]:従五位上。正月15日:左近衛権少将。4月19日:宣旨衣服禁色蔵人任官か)

元慶2年(878年) 正月11日:兼播磨介

元慶5年(881年) 3月8日:左近衛少将。7月16日:兼備中守

元慶6年(882年) 正月7日:正五位下

元慶7年(883年) 2月14日:兼讃岐介

仁和2年(886年) 正月7日:従四位下

仁和3年(887年) 2月2日:兼周防権守

寛平3年(891年) 4月11日:右近衛中将

寛平4年(892年) 正月23日:兼伊予権守

寛平6年(894年) 正月7日:従四位上

寛平9年(897年) 正月11日:兼備中守。5月25日:兼太皇太后宮大夫太皇太后藤原明子)。12月13日:兼右兵衛督

昌泰3年(900年) 2月20日:参議。5月:太皇大后宮大夫辞任

延喜元年(901年)頃:兼播磨権守

延喜4年(904年) 正月7日:正四位下

延喜8年(908年) 正月12日:兼右衛門督

延喜9年(909年) 4月22日:兼備前権守

延喜14年(914年) 正月12日:兼讃岐守

延喜15年(915年) 正月7日:従三位。5月22日:薨去

系譜

父:
藤原長良

母:藤原乙春 - 藤原総継の娘

妻:藤原栄子@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}(清経の同母妹)[要出典] - 従三位

三男:藤原元名(885-965)


妻:藤原貞守の娘

男子:藤原元善

男子:藤原元忠


脚注[脚注の使い方]
注釈^公卿補任』『尊卑分脈』では23日。
^ 貞観18年12月27日はユリウス暦では877年1月15日。
^公卿補任』では7日。

出典^日本紀略』による[注釈 1]
^日本三代実録』貞観11年正月7日条
^ 『日本三代実録』貞観19年正月3日条[注釈 3]

参考文献

武田祐吉佐藤謙三訳『読み下し 日本三代実録 下巻』戎光祥出版、2009年

公卿補任 第一篇』吉川弘文館、1982年

『尊卑分脈 第二篇』吉川弘文館、1987年


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