藤原清河
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 凡例藤原 清河
藤原清河『前賢故実』より
時代奈良時代
生誕不詳
死没不詳
別名河清(唐名)
官位従三位参議常陸守、贈従一品
主君聖武天皇孝謙天皇
氏族藤原北家
父母父:藤原房前、母:片野朝臣の娘
兄弟鳥養永手真楯、清河、魚名宇比良古御楯楓麻呂、北殿、藤原豊成
喜娘
特記
事項遣唐大使として入唐後は唐朝に仕える。
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藤原 清河(ふじわら の きよかわ)は、奈良時代公卿藤原北家の祖である参議藤原房前の四男。唐名は河清(かせい)。官位従三位・参議、従一品

遣唐大使として入唐し、阿倍仲麻呂唐朝に仕えたが、暴風や安史の乱により日本への帰国は叶わず、在唐のまま死去した。
経歴

天平12年(740年従五位下叙爵し、翌天平13年(741年)に中務少輔に任ぜられる。天平15年(743年)に正五位下、天平17年(745年)に正五位上と、聖武朝にて順調に昇進して、天平18年(746年)には従四位下に至る。天平勝宝元年(749年孝謙天皇の即位に伴い参議に任じられ、兄・永手に先んじて公卿に列した。

天平勝宝2年(750年)第12次遣唐使の大使に任じられる。なお、副使には大伴古麻呂吉備真備が任じられた。天平勝宝4年(752年)閏3月に出発にあたり清河は節刀を拝し、正四位下に叙される。同年、難波津から出航するが、出航を前にして清河が詠んだ和歌が『万葉集』に残っている[1]。遣唐使一行は唐に到着すると、長安に入って玄宗に謁見し、君子人なりと称賛された。また特進の称号を授けられている。翌天平勝宝5年(753年)正月に朝貢諸国の使節による朝賀に出席。その席上、日本の席次は西畔(西側)第二席で吐蕃の次であったが、新羅が東畔第一席で日本より上席だった事に抗議、新羅と席を交替させて日本の面目を保っている[2]

同年12月に清河ら遣唐使一行は、在唐35年にも及び唐の高官になっていた阿倍仲麻呂を伴って帰国の途につく。日本への渡航を望む鑑真一行も乗船を希望したが、唐が鑑真の出国を禁じたため清河は乗船を拒否した。しかし副使の大伴古麻呂が独断で鑑真を自身の乗る第二船に乗せる。11月に遣唐船4隻は揚州を出航し、清河の乗る第一船から第三船までが阿児奈波島(現在の沖縄本島)まで到達する。半月程の島への滞在を経て12月に3隻は出航するが、第一船は出航時に座礁してしまう。その後、奄美島を目指して再び出航するが[3]、結局逆風に遭い唐南方の驩州(現在のベトナム北部)に漂着する。土人の襲撃を受け、ほとんどの船員が殺害され船も壊されるが、清河と仲麻呂は僅に身をもって逃れた[4]。一方、鑑真を乗せた第二船等他の3隻は無事日本へ帰国している。天平勝宝7歳(755年)清河と仲麻呂は長安に帰着。清河は河清と名を改めて唐朝に出仕する事になり、秘書監になった。

天平宝字3年(759年)清河を迎えるため高元度を大使とする迎入唐使が渤海国経由で入唐した。しかし当時の唐は安史の乱で争乱状態だったため、行路の危険を理由に唐朝は清河の帰国を許さなかった[5]。清河の帰国が許されなかった事情については、唐の高官として仕官していたため、あるいは唐側がこの遣唐使節を通じて日本側に対して安史の乱で消費した兵器の補充を要請しており[6]、この要請を実現させるための抑留であったとする見方もある[7]。天平宝字4年(760年)日本では清河を在唐大使のまま文部卿に任じ、天平宝字8年(764年)には従三位に昇叙している。

その後、二度の遣唐使の派遣中止等もあり、清河は帰国出来ないまま在唐十余年に及ぶ。この間、天平宝字4年(760年)渤海使・高南申が清河の作成した上表文淳仁天皇に献上[8]、さらに神護景雲4年(770年新羅使・金初正が清河と仲麻呂の作成した故郷の親族向けの書信を大宰府に持参する等[9]、清河が帰国を熱望していた事が推察される[10]。なお、宝亀5年(774年)にも新羅使・金三玄が清河の作成した書簡を大宰府にもたらせている[11]


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