藤原浜主
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 凡例藤原浜主
時代平安時代初期
生誕延暦4年(785年
死没承和12年1月4日845年2月13日
官位従四位上安芸守
主君嵯峨天皇淳和天皇仁明天皇
氏族藤原北家
父母父:藤原園人、母:不詳
兄弟浜主、関主、並人
妻丹治松成の娘
子滋雄、藤原良仁室、興雄
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藤原 浜主(ふじわら の はまぬし)は、平安時代初期の貴族藤原北家右大臣藤原園人の長男。官位従四位上安芸守
経歴

薬子の変終結後の弘仁元年(810年)11月に従六位下から四階の昇叙により従五位下叙爵。のち、出羽介近江権介と地方官を経て、右京亮大学頭を歴任する。弘仁9年(818年右大臣として太政官の首班にあった父の園人が没するが、弘仁11年(820年)従五位上、弘仁13年(822年正五位下次いで従四位下嵯峨朝末にかけて急速に昇進し、この間に侍従神祇伯を務めた。

のち、天長4年(827年)従四位上・阿波守承和7年(840年安芸守に叙任されるなど淳和仁明朝にて地方官を務めている。承和12年(845年)1月4日卒去享年61。
人物

身長六尺(約182cm)の長身で、容儀に見るべきものがあった。一方で、身体が弱かった事から天皇に拝謁する事が稀であり、名家の子息でありながら、功績を残したとの評判が無く、残念な事と思われた[1]
官歴

六国史』による。

時期不詳:従六位下

弘仁元年(810年) 11月22日:従五位下

弘仁2年(811年) 7月23日:出羽介

弘仁3年(812年) 8月26日:近江権介

弘仁5年(814年) 7月10日:兼右京亮。7月26日:兼大学頭、近江介如元

時期不詳:侍従

弘仁11年(820年) 正月7日:従五位上

弘仁13年(822年) 正月7日:正五位下。10月1日:従四位下

時期不詳:神祇伯

天長4年(827年) 正月21日:従四位上。日付不詳:阿波守

承和7年(840年) 正月30日:安芸守

承和12年(845年) 正月4日:卒去

系譜

尊卑分脈』による。

父:藤原園人

母:不詳

妻:生母不詳の子女

男子:藤原滋雄

女子:藤原良仁


妻:丹治松成の娘[2]

男子:藤原興雄[2]


脚注^続日本後紀』承和12年1月4日条
^ a b尊卑分脈』の諸本の中に、丹治松成の娘と藤原興雄について、浜主の甥である時相の妻子とするものもある。

出典

森田悌『続日本後紀 (下)』講談社講談社学術文庫〉、2010年

森田悌『続日本後紀』(上下巻)、講談社〈講談社学術文庫〉、2010年

『尊卑分脈 第一篇』吉川弘文館、1987年


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