藤原楓麻呂
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 凡例藤原 楓麻呂
時代奈良時代
生誕養老7年(723年)?[1]
死没宝亀7年6月13日776年7月3日
別名楓麿、楓万呂
官位従三位参議
主君孝謙天皇淳仁天皇称徳天皇光仁天皇
氏族藤原北家
父母父:藤原房前、母:阿波采女(粟凡若子)
兄弟鳥養永手真楯清河魚名宇比良古御楯、楓麻呂、北殿、藤原豊成
藤原良継の娘
園人、園主、城主
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藤原 楓麻呂(ふじわら の かえでまろ)は、奈良時代公卿。名は楓麿または楓万呂とも表記される。藤原北家の祖である参議藤原房前の七男。官位従三位参議
経歴

孝謙朝天平宝字2年(758年)正月に西海道問民苦使に任じられ、9月に民の疾苦29件を太政官に上申する。これに対して大宰府が対処を命じられた[2]

同年8月淳仁天皇即位に伴って従五位下丹後守に叙任される。この叙位では、淳仁天皇の兄である船王池田王藤原仲麻呂の親族の巨勢麻呂御楯真先久須麻呂、仲麻呂側近の石川年足氷上塩焼佐伯毛人阿倍子島紀伊保ら、淳仁天皇・藤原仲麻呂に親しい者が多く昇叙されており、楓麻呂も親仲麻呂派とみられていたか[3]。淳仁朝初頭は、天平宝字3年(759年)文部卿の石川年足を始め仲麻呂の側近が多く歴任している文部省の次官である文部少輔に[4]、翌天平宝字4年(760年)正月には仲麻呂の主要政策である巡察使東海道巡察使)に任じられる等、仲麻呂の信頼を受けその政策の遂行を担った[5]

しかし、同年2月に文部少輔を解かれ但馬介左遷される。当時の但馬守は山背王であったが、参議として京師にいたことから、但馬国の行政は楓麻呂に任せられていたと想定される[6]。但馬介の任期を満了して、天平宝字7年(763年)正月に大判事として京官に復すが、同年7月には藤原仲麻呂暗殺未遂事件が発生して舅である藤原宿奈麻呂が大不敬として罰せられ除名処分を受けており、楓麻呂の政治的立場に悪影響を及ぼしたと見られる[6]

天平宝字8年(764年)9月に藤原仲麻呂の乱が勃発すると、四階昇進して従四位下に叙せられてその追討に当たり、乱終結後の10月には軍事上の要衝である美濃守に任ぜられる。さらに、翌天平神護元年(765年)正月には乱での功労により勲四等叙勲を受け、同年7月には右兵衛督に任ぜられる等、乱における武功が大きかったと考えられる[7]。天平神護3年(767年大宰大弐として九州に赴任。大宰帥石川豊成であったが、参議の兼官であったため、大宰府での行政は楓麻呂が差配したと見られる[7]。翌神護景雲2年(768年)には安史の乱によるの混乱や、関係が悪化していた新羅への対策のために築城されていた、怡土城を完成させている。神護景雲2年(768年右大弁として京官に復す。

神護景雲4年(770年)8月に称徳天皇が崩御すると、大葬御装束司を務める一方、弾正尹として左大弁佐伯今毛人と共に、道鏡下野国への護送を担当した。同年10月の光仁天皇即位に伴い従四位上に昇叙されると、翌宝亀2年(771年正四位下、宝亀3年(772年)には参議に任じられて公卿に列す。楓麻呂の参議登用については、太政官の首班であった左大臣藤原永手が前年2月に没したことで、太政官構成において北家が実質的に大納言藤原魚名のみ(藤原清河は在唐)となっていたことから、楓麻呂の登用により藤原各家の均衡をとり(南家:2人、北家:2人、式家:3人)、藤原氏の挙族体制によって政権を保持しようとした内臣藤原良継(楓麻呂の舅でもある)の意図があったと見られる[8]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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