藤原末茂
[Wikipedia|▼Menu]

 凡例藤原 末茂
時代奈良時代
生誕不詳
死没不詳
官位従五位上美作守
主君光仁天皇桓武天皇
氏族藤原北家魚名流
父母父:藤原魚名、母:藤原宇合の娘
兄弟鷹取鷲取、末茂、藤成真鷲藤原小黒麻呂室、藤原長道
妻不詳
子沢継、野継、門継、総継藤原道雄
テンプレートを表示

藤原 末茂(ふじわら の すえしげ/すえもち)は、奈良時代貴族藤原北家左大臣藤原魚名の三男。官位従五位上美作守
経歴

宝亀8年(777年)3月に父・魚名の曹司(官衙庁舎)に光仁天皇行幸した際、従六位上から三階昇進して従五位下叙爵され、同年10月図書頭に任ぜられる。のち、左衛士員外佐中衛少将といった武官や、美濃介肥後守等の地方官を歴任する。

桓武朝に入ると、天応2年(782年)突如として左大臣として太政官の首班にあった父・魚名が失脚すると、末茂も他の兄弟と共に連座して、土佐介に左遷される。翌延暦2年(783年)兄・鷹取と共に入京を許され、延暦3年(784年)7月には一旦伊予守に任ぜられるものの、同年9月には再び日向介に左遷されてしまう。

その後、再び赦されたらしく、延暦7年(788年内匠頭、延暦9年(790年)従五位上・美作守に叙任されている。
官歴

続日本紀』による。

時期不詳:従六位上

宝亀8年(777年) 3月16日:従五位下。10月13日:図書頭

宝亀9年(778年) 2月9日:美濃介

宝亀10年(779年) 2月9日:左衛士員外佐。2月23日:肥後守

宝亀11年(780年) 2月9日:左衛士員外佐、肥後守如故。9月1日:中衛少将

天応2年(782年) 6月14日:土左介

延暦2年(783年) 7月23日:入京

延暦3年(784年) 7月13日:伊予守。9月12日:日向介

延暦7年(788年) 3月21日:内匠頭

延暦9年(790年) 2月27日:従五位上。3月10日:美作守

系譜

尊卑分脈』による。

父:藤原魚名

母:藤原宇合の娘

生母不詳の子女

男子:藤原沢継

男子:藤原野継

男子:藤原門継

男子:藤原総継

女子:藤原道雄


出典

宇治谷孟『続日本紀 (下)』講談社学術文庫、1995年

『尊卑分脈 第二篇』吉川弘文館、1987年


記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:6877 Bytes
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef