藤原時平
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 凡例藤原 時平
『北野天神縁起絵巻』承久本第5巻より
時代平安時代前期
生誕貞観13年(871年
死没延喜9年4月4日909年4月26日
別名本院大臣
官位正二位左大臣正一位太政大臣
主君光孝天皇宇多天皇醍醐天皇
氏族藤原北家
父母父:藤原基経、母:人康親王の娘
兄弟佳珠子、時平、温子仲平兼平忠平、良平、穏子、頼子、佳美子、貞元親王妃、源能有
妻正室:廉子女王本康親王の娘)
源湛の娘
本院侍従(在原棟梁の娘)
保忠顕忠敦忠仁善子褒子
藤原実頼室、敦実親王妃、克明親王
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藤原 時平(ふじわら の ときひら、貞観13年〈871年〉- 延喜9年4月4日909年4月26日〉)は、平安時代前期の公卿藤原北家摂政関白太政大臣藤原基経長男官位正二位左大臣正一位太政大臣。本院大臣と号した。

基経の嫡男として若くして栄達し、醍醐天皇が即位すると左大臣として廟堂の頂点に立った。意欲的に改革に着手するが39歳で死去した。昌泰の変により菅原道真左遷した中心人物で天神怨敵天神信仰が広まった後世説話では讒臣・極悪人として描かれている[1]

時平信仰として千葉県北西部の一部(船橋市習志野市八千代市)、主に二宮神社ではとして祀られている。
生涯

藤原基経の長男として生まれる。父の基経は陽成天皇を廃し、光孝天皇を擁立して太政大臣として朝政を執り絶大な権力を有していた。光孝天皇は常に基経の意を迎えていた。

仁和2年(886年)16歳で元服。元服式は内裏仁寿殿で行われ、正五位下が授けられた。その際の告文は学者で知られた参議橘広相が起草し、光孝天皇が自ら清書した。さらに自ら加冠の役を果たした上に、時平が儀式の際に用いた冠巾は天皇の衣服であった[2]。この特別待遇は基経と同様、天皇の擁立に功があった藤原百川の嫡男、藤原緒嗣の元服に習ったものと見られている[3]

翌仁和3年(887年)正月には早くも従四位下右近衛権中将に叙任され、8月に宇多天皇が即位すると、時平は蔵人頭に補せられた。寛平2年(890年)従四位上次いで従三位と越階昇叙され、20歳で公卿に列す。寛平3年(891年)父・基経が死去するが、時平はまだ21歳と若年のため摂関は置かれず、宇多天皇の親政となった。また、藤氏長者は大叔父の右大臣藤原良世が任じられた。

時平は寛平5年(893年)、中納言右近衛大将となり、敦仁親王が東宮になると春宮大夫を兼ねている[4]。寛平9年(897年正三位大納言兼左近衛大将に叙任される等順調に昇進した。

寛平9年(897年)宇多天皇は譲位して敦仁親王が即位した(醍醐天皇)。宇多上皇は新帝に与えた「寛平御遺誡」において、時平を「功臣の後」「第一の臣」「年若いが政理にくわしい」と評し、「(時平を)顧問に備え、その補導に従え」としている[5]。さらに譲位に際しての詔書で時平と道真に対して奏請と宣行の権限を与え、事実上政務を委ねる意思を示した[6]。またこの年には、前年の藤原良世の致仕(引退)によって空席となっていた藤氏長者に時平は補されている。一方で時平と道真のみに政務が委ねられたことに反発した納言たちが職務を放棄し、宇多上皇が勅を出すことでようやく復帰したという事件も起きている[7]昌泰2年(899年)時平は左大臣に任ぜられて太政官の首班となり、同時に菅原道真も右大臣となった。しかし道真は宇多上皇の側近の地位を引き続き占め[8]、醍醐天皇と時平、その近臣たちとの間に対立が生まれつつあった[9]。また、時期は明確ではないが同母妹の穏子を醍醐天皇に入内させているが、これは宇多上皇の反対を押し切ってのことであった[10]

昌泰4年(901年)正月、道真は「宇多上皇を欺き惑わした」「醍醐天皇を廃立して娘婿の斉世親王を皇位に就けようと謀った」として、大宰員外帥左遷された(昌泰の変[11]。また道真の子と、宇多上皇の近臣らも流罪となっている[12]。道真の後裔である菅原陳経が「時平の讒言」として以降、現在でもこの見解が一般的である[13]。平安期の説話集である『宝物集』『十訓抄』『古今著聞集』などでは時平の讒言の記述はあるが、「虚言」「奏事不実」とややぼかした言い方となっている[14]。ただし、『扶桑略記』延喜元年七月一日条に引く『醍醐天皇日記』は、藤原清貫が左遷後の道真から聞いた言葉として、「自ら謀ることはなかった。ただ善朝臣(源善)の誘引を免れることができなかった。又仁和寺(宇多上皇)の御事に、数(しばしば)承和の故事(承和の変)を奉じるのだということが有った」と記載している。これにより、廃立計画自体は存在したという見解もある[15]。道真の左遷から2か月後に穏子が女御に立てられている[16]ことや、忠平の息子である藤原師輔が日記に宇多上皇が穏子の入内や彼女が生んだ保明親王の立太子に反対していたと書き残していることから[17]、時平との関係強化のために穏子の入内を進める醍醐天皇と過去の経緯から基経の血筋が皇統に入ることを嫌う宇多上皇が対立し、上皇が天皇の廃嫡・廃位を考えたとする説もある[18]

道真はその父菅原是善の時代から基経・時平家との関わりが深く、時平とも度々詩や贈り物を交わす関係であった[19]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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