藤原新
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藤原 新

2012年、ロンドン五輪での藤原新
選手情報
フルネーム藤原 新
国籍 日本
種目長距離走マラソン
所属スズキ浜松AC
生年月日 (1981-09-12) 1981年9月12日(39歳)
生誕地長崎県諫早市
身長167p
体重54s
自己ベスト
1500m3分52秒42 (2007年)
5000m13分41秒35 (2006年)
10000m28分41秒05 (2009年)
ハーフマラソン1時間1分34秒 (2012年)
マラソン2時間7分48秒 (2012年)
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藤原 新(ふじわら あらた、1981年9月12日 - )は、日本陸上競技長距離走マラソン選手、現指導者スズキ浜松ACコーチ)。現役時代の所属はJR東日本フリー→レモシステム→フリー(東京陸上競技協会)→ミキハウス→フリー(富山陸上競技協会)→アキレス(MEDIFOAM)。

男子マラソンの主な実績に、2012年ロンドンオリンピック2009年世界陸上ベルリン大会各日本代表、2008年2010年2012年東京マラソン男子の部各2位、2015年防府読売マラソン優勝など。目次

1 来歴

1.1 北京オリンピックは補欠代表

1.2 世界陸上ベルリン大会出場

1.3 ロンドンオリンピック代表選出・出場

1.4 ロンドンオリンピック以降

1.5 リオオリンピック代表は絶望

1.6 リオオリンピック以降


2 第一線から引退

3 自己記録

4 マラソン全成績

5 脚注

5.1 注記

5.2 出典


6 外部リンク

来歴

長崎県諫早市(旧・西彼杵郡多良見町)出身。1997年3月、諫早市立琴海中学校(旧・多良町立琴海中学校)卒業。1997年4月、長崎県の駅伝強豪校である県立諫早高等学校に入学し陸上競技部に入部するも、高校在学中に全国高校駅伝競走大会への出場は一度も果たせなかった[1]

諫早高校卒業後の2000年4月、拓殖大学商学部に入学。拓殖大時代も陸上競技部に所属し、箱根駅伝には第77回(1区10位)と第79回(4区4位)の2回出場している[2]。なお同陸上部の1年後輩には、奇しくものち夏季オリンピック日本代表へ二人共に選出される中本健太郎安川電機)が所属していた[3][4]2004年3月、拓殖大学を卒業。
北京オリンピックは補欠代表

2004年4月、同じ拓殖大陸上部所属だった高田千春らと共に東日本旅客鉄道(JR東日本)に入社。八王子支社総務部総務課に勤務しながら、前年創設されたばかりのJR東日本ランニングチームに所属[注 1] し、競技活動を行う。5000m走10000m走などで実績を積むとともに、全日本実業団対抗駅伝(ニューイヤー駅伝)にはチーム初出場の第49回大会(2005年)で1区を任され[5]、その後エース区間に起用されるなどの活躍を見せる。

2007年3月4日の第62回びわ湖毎日マラソンが初マラソン。しかしこのときはレース中に腹痛と足のマメに悩まされて、2時間38分37秒の85位と完走がやっとであった。

2008年2月17日東京マラソン2008の選考会の部(北京オリンピック男子マラソン日本代表選考レース)に一般参加で2回目のマラソン出場。このときはフルマラソン記録での参加資格(2時間30分以内)を満たさずハーフマラソンの記録で何とか参加資格を得たが、本人曰く「とにかく先頭についていけるところまで行こうと思った」[6] というレース運びでくらいつく。レース終盤で脹ら脛痙攣するアクシデントに何度も見舞われながら、優勝したビクトル・ロスリン スイス)に次ぐ日本人トップの第2位でフィニッシュ。自己記録を約30分も更新する、2時間8分40秒のタイムをマークし、一躍北京オリンピックの代表候補に名乗り出た。結果的に世界陸上大阪大会男子マラソンで5位入賞した尾方剛中国電力)と3番目の争いに惜しくも敗れ、補欠での選出となりオリンピック出場はならなかった[注 2]
世界陸上ベルリン大会出場

シカゴマラソン出場(16位)を経て、2008年12月7日の第62回福岡国際マラソン世界陸上ベルリン大会選考レース)に出場。ツェガエ・ケベデ エチオピア)、入船敏カネボウ)に次ぐ3位に入った。この記録が2度目の「サブテン」(2時間10分未満)だったことが評価され、2009年の世界陸上ベルリン大会男子マラソン代表5選手の一人に初めて選出された。本大会では序盤は上位集団に食らいつくも、レース中盤以降で大幅にペースダウンしてしまい、61位の惨敗に終わった[8]

2010年2月の東京マラソン2010に出場。藤原正和HONDA・現中央大学陸上部監督)との「藤原」対決に敗れはしたが、2年ぶり2度目の2位でフィニッシュ。同年3月31日を以てJR東日本ランニングチームを退部(JR東日本を退社)、フリーとなる。

同年5月オタワマラソンに出場。残り1km付近でスパートをかけて抜け出し、そのまま先頭でフィニッシュ、自身念願のマラソン初優勝を大会新記録・コースレコードで飾った[9]。その後、2010年7月1日付で健康食品の製造・販売事業を展開するレモシステムとのスポンサー契約(3年契約)を結ぶ。


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