藤原 敏男(ふじわら としお)基本情報
通称キックの荒鷲
キックの神様
階級ライト級(キックボクシング)
身長1.68 m (5 ft 6 in)
体重61キログラム (134 lb)
国籍 日本
誕生日 (1948-03-03) 1948年3月3日(76歳)
出身地岩手県宮古市
スタイルキックボクシング
プロキックボクシング戦績
総試合数141
勝ち126
KO勝ち99
敗け13
引き分け2
テンプレートを表示
藤原 敏男
YouTube
チャンネル
藤原敏男Youtube
藤原 敏男(ふじわら としお、1948年〈昭和23年〉3月3日 - )は、日本のキックボクサー。岩手県宮古市田老鉱山出身。外国人として初めてムエタイの頂点・ラジャダムナン王者となった。
その戦いぶりはキックの荒鷲と呼ばれるほど激しい攻撃力を持ち、一時代を築いた強豪である。ムエタイ現役王者をノンタイトル戦で現地バンコクでKO勝ちなど何度も勝利していることから、タイ人以外のムエタイ王者としての実績は文句なしにトップである。身長168cm、体重61kg、血液型A型[1]。
引退後は「藤原スポーツジム」で後進の育成や、「ジャパン・マーシャルアーツ・ディレクターズ(JMD)」の理事長をしている。
2020年3月1日、YouTubeで藤原敏男オフィシャルチャンネルを開設し動画配信を開始。 高校時代はテニス部に所属し、卒業後に上京し中央工学校の夜間部で設計の勉強を始める。アルバイトで牛乳配達をするが、配達区域に目白ジムがあった。その縁で目白ジムを見学しているうちにキックボクシングに興味を抱き、1969年7月に目白ジムへ入門した。黒崎健時の指導を受け、目白ジムに住み込みでキックボクシングに専念し始めると、1日10時間年中休みなしの練習漬けの毎日を送った。同年10月1日にプロデビュー。坂井田佳央と対戦しパンチで2RKO勝ち。しかし、タイ人選手相手に立て続けにKO負けしたことで、本格的にキックボクシングに取り組み始める。 1971年11月5日、全日本キックボクシング協会の初代王者決定トーナメントで玉城良光に判定勝ちし優勝。初代ライト級王座を獲得し、新格闘術に転向するまで防衛し続けた。 1972年4月でのタイ遠征を皮切りに、ムエタイの殿堂ラジャダムナン、ルンピニー両スタジアムで本場ムエタイ戦士と対戦。 1974年3月、キックボクシングに転向していた元プロボクシング世界フェザー級王者西城正三と対戦。西城は転向後、16試合15勝1引き分け13KOと連勝街道を突っ走っていた。世紀の一戦とマスメディアも煽り立てたこの試合は、1Rから西城がパンチ中心で攻めるのに対し、藤原はパンチ・蹴りと上下に散らし、バランス良く攻める。2Rから藤原の攻めにスピードが乗りヒットし始めると、西城の攻めは空振りが目立ち始める。3Rに入り、西城が一方的に攻められる状態になり、KOなるかの直前に西城陣営からタオルが投げ込まれ、試合を棄権。藤原のTKO勝ちとなった。詳細は藤原敏男 対 西城正三戦を参照。同年11月26日、東京体育館でBBTVライト級タイトルマッチでジャイディ・ピサラヌンチャン(ラジャダムナン・ライト級王者)と対戦したが4度のダウンを喫し、判定負けした。 1975年、左脛を28針縫う手術し引退を囁かれたが、復帰を果たす。このとき45日間入院したが、退院して3日後、皇居マラソンをやり、5キロメートルを23分ぐらいで走った。決して速いタイムではないが、28針縫って48日間も寝ていた体で走りきる常識では考えられないことをやり遂げた[2]。 1977年4月7日、タイのラジャダムナン・スタジアムでチャラポン・ソータイ(ライト級王者)と対戦。1Rで藤原が右肘打ちを出し、お互いがもつれあいになり、両者倒れた。右肘打ちがリングに倒れる前か後かで判断が分かれたが、ムエタイはダウン以外でも倒されるのはマイナス評価を受ける競技であり、倒れる方が悪いと判断され、藤原はムエタイの歴史上初めて現役王者を破るという快挙を為し遂げ、外国人として初偉業を成し遂げた。 1978年3月8日、後楽園ホールでモンサワン・ルークチェンマイに4RKO勝ちし、ラジャダムナン・スタジアムライト級王座を獲得し、ムエタイ史上初の外国人王者となった。同年6月7日、シープレイー・ガイソンポップ(ルンピニー&ラジャダムナンライト級1位:タイ)と対戦し判定負け。黒崎健時や日本のマスメディアは、タイ側のホームタウンディシジョン判定であると主張している。 1979年10月30日、シープレイー・ガイソンポップ(ルンピニー&ラジャダムナンライト級統一王者)と王座決定戦を行い7RKO勝ちし、黒崎健時が興した「新格闘術」の世界ライト級王者になる。同年には梶原一騎総指揮の映画にも出演している。また、梶原原作の劇画「四角いジャングル」にも重要人物として頻繁に登場した。 1983年2月に引退し、その後、長い間キックボクシングには関わらなかったが、1997年に「藤原スポーツジム」を設立し、指導を始める。 2010年に発足される立ち技系格闘技のコミッション組織「ジャパン・マーシャルアーツ・ディレクターズ(JMD)」の理事長に就任した[3]。 2024年1月 国際真武術連盟 龍魂会二代目会長に就任。[4] 黒崎健時は次のように評している。 「藤原が入門してきた時は痩せていて、おっとりしていて、何のへんてつもない奴で、こいつはモノになるだろうかと思ったほどだ。ただ真面目で、人間が素直ではあった。その時に感じた藤原の長所といえば、勘の良さとキックに向いた身体つきである。手と足を自由自在に使いこなさなければならないキックボクシングでは、瞬間的な判断力、すなわち勘がもっとも大切なのである。そして藤原は、実に素直な人間である。意見を言った時、口先だけでわかりましたと言い、内心そんなことできるかと思う奴と、私の立場になっていったことを本当に理解出来る者とがいるが、その点藤原は素直に私の意見を聞き入れる。だから選手生活も長く、世界チャンピオンになれたのだろう。[5]」 リングを降りた藤原は、東北人らしい寡黙で真面目な性格である。その一方で佐山聡は 「路上のケンカといえば、藤原敏男先生。彼が掣圏道のモデルです[6]。チャンピオンの技をケンカに有効活用されてますよ、徹底的に(笑)。一般的に格闘技をやったからこそ、技術的にケンカが強いということは確かにあります。しかし、多くの格闘家がリング上は競技ですから非常に精神力が強いということですけど、一般社会に出て精神力が強い人はあまりいないですよ。藤原先生は両方ありますね。[7]」 と藤原がリングの上でも路上でも強かったことを証言している。 そのほかにも新宿で10人倒したとか[6]、銀座で言い争いになって6人倒したとか逸話があり[6]、その話の続きで
来歴
人物
師匠が語る
ケンカ
舟木昭太郎[注釈 1]「ある大学の柔道部の奴を滅多打ちにしたって話。