藤原 惟光(ふじわら の これみつ)とは、『源氏物語』に登場する架空の人物。本項目では惟光に繋がる一族の人物についても説明する。 藤原惟光は、光源氏にとって自身の乳兄弟という関係にある腹心の家来の一人であり、数多くの『源氏物語』の登場人物の中で本名が明らかにされている数少ない人物の一人である。光源氏と同年齢か若干年上と見られる[1][2]。光源氏と数多くの女性たちとの間のやりとりにかかわり、光源氏との密会の際に急死した夕顔を葬るなど表に出来ない面を含めて光源氏のために働いている。歌作など様々な分野でも優れた才能を示し、光源氏の多くの恋愛の成功に重要な役割を果たしている[3][4][5]。壮年期以降には彼自身の身分が高くなり、参議にまで昇った一方自身の登場の機会は大きく減ったが、娘の藤典侍が光源氏の子夕霧の側室となって多くの子を産み、男の子供は夕霧に仕える人物として姿を見せている。惟光の物語上の位置づけについてはしばしば『狭衣物語』における主人公狭衣の乳母子で側近である道季と対比される[6]。 『竹取物語』や『うつほ物語』といった『源氏物語』に先行する多くの物語では、主人公を始めとして少なくない登場人物が本名と思われる固有の名前が明記されていた。これに対して『源氏物語』では大部分の登場人物は単に官職名で記されていたり呼び名のようなものしか記されておらず、本名が明らかにされていない。そのような中でこの藤原惟光は、同じく光源氏の家来の一人である源良清と並んで、数多くの『源氏物語』の登場人物の中で本名が明らかにされている数少ない人物の一人である。このようにごく一部の人間のみが本名を記されていることについて、本名を記されているこれらの人物は、「低い身分ながら物語の中でしばしば活躍するためである」とする玉上琢弥の説[7]や「信頼できる主従関係が有る人物を実名で記すという原則が存在する」とする稲賀敬二の説[8]などが存在する。 なお、「惟光」という名前について、室町時代の公家・学者・歌人四辻善成の注釈書『河海抄』は、当時の漢文日記の例を挙げて『源氏物語』が書かれた当時としてはありふれた平凡な名前だったとしているが、「惟光」という名前には常に光源氏の忠実な家来であることを示す「光(源氏)を惟(おも)う」という意味が込められているとする見解がある[9]。 四辻善成は『河海抄』の序文において自身のことを「はるかに惟光・良清が風をしたふ賤しき翁なり」と記し、また「従五位下物語博士源惟良」という名前で署名しているが、この「惟良」という名前は惟光と良清を合わせたものであると考えられている[10]。 藤原惟光は直接には以下の巻で登場し、本文中ではそれぞれ以下のように表記されている[11]。 その他第39帖 夕霧などいくつかの巻で同人の子孫についての記述が見られる。 惟光の姓については、直接本人の姓を記す記述は本文中には存在しないが、娘が「藤典侍(とうのないしのすけ)」と、藤原氏出身であることを意味する呼ばれかたをしていることから惟光自身も藤原氏であると考えられる。 母は「大弐乳母」と呼ばれている光源氏の乳母の一人である。光源氏の乳母としては他に左右衛門の乳母と呼ばれている人物がいる[12]。「大弐乳母」の名は父親か夫が大宰大弐であったことに由来すると思われるがいずれによるのか不明である。夕顔巻と末摘花巻にのみ登場する。病になって尼になり五条の家に住んでいたが、源氏が見舞いに寄った際に隣の家に住んでいた夕顔を見つけるきっかけになる[13]。 兄の阿闍梨がおり、源氏と密会していた際突然死去した夕顔を惟光が密かに葬るのを手伝っている[14]。 娘に藤典侍がいる。この娘は惟光から大切に育てられ、男兄弟すら滅多に会えないほどの可愛がりようであった。いずれ宮中に上げて典侍にするつもりであったが、源氏の命により五節の舞姫として差し出すことを命じられ、気が進まないもののしぶしぶ出仕に応じた。この際に源氏の嫡男である夕霧に見初められることになり、以後、惟光は妻と共に、自身の一族が明石の一族と同じように娘が貴人の子を産むことによって栄達することを期待して、娘と夕霧の仲を取り持つことに積極的になっていった[15]。
概要
本名の人物
登場する巻
第04帖 夕顔 惟光、惟光の朝臣、大夫
第05帖 若紫 惟光、惟光の朝臣、大夫
第07帖 紅葉賀 惟光
第08帖 花宴 惟光
第09帖 葵 惟光
第11帖 花散里 惟光
第12帖 須磨 民部大輔、大輔
第13帖 明石 惟光
第14帖 澪標 惟光
第15帖 蓬生 惟光
第18帖 松風 惟光の朝臣
第21帖 少女 惟光の朝臣、摂津守、左京大夫、朝臣、父主
第32帖 梅枝 惟光の宰相
家系
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