凡例藤原 忠実
時代平安時代後期 - 末期
生誕承暦2年3月27日(1078年5月12日)
死没応保2年6月18日(1162年7月31日)
改名忠実→圓理(法名)
別名富家殿、知足院殿、禅閤
官位従一位、摂政、関白、太政大臣、准三宮
主君堀河天皇→鳥羽天皇→崇徳天皇
氏族藤原北家御堂流
父母父:藤原師通、母:藤原全子
兄弟忠実、家政、家隆、斎院女別当、女子、令子内親王宣旨、覚英、栖霞院姫君
妻正室:源任子(源俊房の娘)
継室:源師子(源顕房の娘)
妾:播磨(藤原盛実の娘)
高階基章室・况、中宮信濃
子泰子(三女、鳥羽上皇皇后)、忠通(次男)、頼長(三男)、女子、御匣殿
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藤原 忠実(ふじわら の ただざね)は、平安時代後期から末期にかけての公卿。藤原北家、関白・藤原師通の長男。官位は従一位、摂政、関白、太政大臣、准三宮。日記『殿暦』の著者。 関白・師通と頼宗流の権大納言・藤原俊家の娘である全子との間の嫡男として承暦2年(1078年)に生まれる。しかし師通は藤原信長(教通の子)の養女である信子(藤原経輔の娘)を正室にして母全子と離縁する。これは頼通流と教通流による摂関家内部の長年の対立に終止符を打つものだったが、この恨みを全子は生涯忘れず、父・俊家の画像を描かせて礼拝し、師通を呪ったという[1]。忠実は母・全子を尊重する一方で義母・信子の扶養を拒み、そのため彼女は「乞食」と揶揄されるほどの経済的困窮に陥ったという。 『栄花物語』の続編の最後(40巻「紫野」)は当時15歳で中納言となった忠実が奈良の春日大社で春日祭を主催して帰京する場面で締めくくられ、忠実の元で摂関家が再び興隆する期待感をもって終わっている。しかし、現実には康和元年(1099年)に父の師通が働き盛りの年齢で急逝した際、22歳で権大納言の忠実は、最年少で摂政となった曽祖父・頼通の26歳という年齢を大きく下回っていたこと(しかも頼通は就任から10年近く父・道長の後見を受けた)に加え、まだ大臣に任官されていなかったことにより、関白には任じられず内覧にとどまった。 また、既に引退していた祖父・師実にも忠実を支える余力はなかった。ただし、内覧であっても過去には藤原時平や道長のように摂関同様の実権を振るった例もあり、忠実にも挽回の可能性が残されていたが、源義親の濫行や東大寺僧の赤袈裟着用問題では自らの判断を下すことが出来ず、政治的未熟をさらけ出した。致命的であったのは康和4年(1102年)に大衆に対する取締の不徹底を理由に、白河法皇が忠実の叔父である興福寺別当・覚信を解任しようとした際、これを執り成そうとして却って法皇の怒りを買ってしまい、8月1日に法皇から政務関与への拒絶を通告された事件であった(『中右記』)[注釈 1]。こうした一連の事件のために摂関家は完全に院政の風下に立つ事になり、忠実は摂関家の栄華を再び取り戻すという夢を生涯かけて追求する事になる。 忠実の最初の室は源俊房の娘・任子
生涯
白河院政期