この項目では、平安時代後期の藤原北家の公卿について説明しています。平安時代前期の藤原式家の貴族については「藤原忠宗 (藤原式家)」をご覧ください。
凡例藤原 忠宗
時代平安時代後期
生誕寛治元年(1087年)
死没長承2年9月1日(1133年9月30日)
官位従三位、権中納言
主君堀河天皇→鳥羽天皇→崇徳天皇
氏族藤原北家花山院家
父母父:藤原家忠、母:藤原定綱の娘
兄弟忠宗、忠能
藤原 忠宗 (ふじわら の ただむね) は、平安時代後期の公卿。藤原北家、左大臣・藤原家忠の長男。官位は従三位・権中納言。蔵人頭を9年間にも亘って務めるといった有能な政治家であり「天下を支ふるの臣」と評された[1]。花山院家2代。 永長2年(1097年)従五位下に叙爵。康和2年(1100年)侍従に任ぜられ、康和4年(1102年)従五位上に進む。康和5年(1103年)東宮昇殿、続いて康和6年(1104年)昇殿を聴されて讃岐介を兼ねた。 嘉承元年12月(1107年1月)左近衛少将に任ぜられる。嘉承2年(1107年)には伊予介を兼ね、五位蔵人に補任。天仁元年(1108年)正五位下・丹波権介に叙任され、天永3年(1112年)従四位下に叙せられた。加賀権介を経て、永久5年(1117年)従四位上に昇叙。永久6年(1118年)に備中権介を兼ねる。元永2年(1119年)正四位下・左近衛中将に叙任され、元永3年(1120年)美作介、保安3年12月(1123年1月)蔵人頭に補せられ、翌保安4年(1123年)には中宮権亮も兼ねた。 美作権介・播磨介を兼帯し、大治5年(1130年)従三位・参議に叙任されて公卿に列す。大治6年(1131年)には丹波権守を兼ね、同年権中納言に任ぜられた。さらに中宮権大夫を兼ねるが、長承2年(1133年)9月1日の夜、俄かに調子を崩して父に先立って薨去したという。享年47。忠宗の死因は年来患っていた睡眠病(ある病によって絶えず眠りを催す症状をいう)であったが、同じく大治4年(1129年)に睡眠病での藤原顕隆の薨去もあって、当時尤も恐れるべき病とされた[2]。 ※以下、『公卿補任』の記載に従う。
経歴
官歴
永長2年(1097年)正月5日:従五位下に叙す(父卿譲平野大野原行幸行事賞)。
康和2年(1100年)7月24日:侍従に任ず。
康和4年(1102年)9月25日:従五位上に叙す(天皇高陽院還宮賞)。
康和5年(1103年)8月17日:東宮昇殿を聴す。
康和6年(1104年)正月14日:昇殿を聴す。正月28日:讃岐介に任ず。
嘉承元年12月27日(1107年1月22日):左近衛少将に任ず。
嘉承2年(1107年)
正月26日:伊予介を兼ぬ。
7月19日:昇殿を止み、新帝昇殿を聴す。
12月8日(1108年1月22日):五位蔵人に補す。
天仁元年(1108年)11月10日:丹波権介を兼ぬ。11月20日:正五位下に叙す(主基)。
天永3年(1112年)正月5日:従四位下に叙す。少将如元。
天永4年(1113年)正月28日:加賀権介を兼ぬ。
永久5年(1117年)正月5日:従四位上に叙す(府)。
永久6年(1118年)正月-日:備中権介を兼ぬ。
元永2年(1119年)2月11日:正四位下に叙す。11月17日:左近衛中将に転ず。
元永3年(1120年)正月28日:美作介を兼ぬ。
保安2年(1121年)2月13日:右近衛中将に任ず。
保安3年(1122年)2月8日:禁色を聴す。12月17日(1123年1月16日):蔵人頭に補す。