凡例藤原 富士麻呂
藤原富士麻呂/菊池容斎画『前賢故実』より
時代平安時代初期
生誕延暦23年(804年)
死没嘉祥3年2月16日(850年4月2日)
官位従四位下、陸奧出羽按察使
主君淳和天皇→仁明天皇
氏族藤原南家巨勢麻呂流
父母父:藤原村田、母:県犬養以綱の娘
兄弟富士麻呂、達良麻呂、興世
妻紀名虎の娘
子敏行
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藤原 富士麻呂(ふじわら の ふじまろ)は、平安時代初期の貴族。藤原南家巨勢麻呂流、讃岐守・藤原村田の次男。官位は従四位下・陸奧出羽按察使。 淳和朝において、春宮・正良親王に仕えその寵遇を受ける[1]。天長10年(833年)春宮少進に任ぜられ、やがて近衛将監に転任する。同年3月の正良親王の即位(仁明天皇)に伴い、従五位下・右近衛少将に叙任された。承和4年(837年)阿波介を兼ねる。 承和9年(842年)正月に従五位上に昇叙される。同年9月には伴健岑と橘逸勢が謀反を起こすが、右馬助・佐伯宮成と共に近衛兵を率いて、謀反人を包囲して捕縛に成功(承和の変)。この功労により、富士麻呂は正五位下・右近衛中将に昇進する。承和12年(845年)従四位下。 承和13年(846年)に陸奧出羽按察使として東北地方に下向するが、赴任にあたり清涼殿に招かれ仁明天皇から鄭重な恩詔を受け、被衣と綵帛を賜与された[1]。嘉祥2年(849年)冬に平安京に帰還するが、翌嘉祥3年(850年)春に背中に悪瘡を患い、2月16日に卒去。享年47。最終官位は陸奧出羽按察使従四位下。 若い頃から大学で学び、広く史漢に通じた一方、弓馬にも秀でた。性格は温雅であった。長く近衛府の武官を務めたが、よく士卒の歓心を得ることができ、仁明天皇から将軍としての才があると評された。死去の際、人々はみな悲しみ惜しんだという[1]。 『続日本後紀』による。 『尊卑分脈』による。
経歴
人物
官歴
天長10年(833年) 正月:春宮少進。日付不詳:右近衛権将監。3月6日:従五位下。3月24日?:右近衛少将[2]
承和4年(837年) 正月12日?:兼阿波介[2]
承和8年(841年) 正月13日?:止阿波介[2]
承和9年(842年) 正月7日:従五位上。7月25日:正五位下、右近衛中将
承和12年(845年) 正月7日:従四位下
承和13年(846年) 7月27日:陸奥出羽按察使。9月14日:兼相模権守
嘉祥3年(850年) 2月16日:卒去(陸奧出羽按察使従四位下)
系譜
父:藤原村田
母:県犬養以綱の娘
妻:紀名虎の娘
男子:藤原敏行(?-901?)
脚注^ a b c 『続日本後紀』嘉祥3年2月16日条
^ a b c 『近衛府補任』
出典
森田悌『続日本後紀 全現代語訳』(上下巻)講談社学術文庫、2010年
『尊卑分脈 第二篇』吉川弘文館、1987年
市川久編『近衛府補任』続群書類従完成会、1992年
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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