凡例藤原家緒
時代平安時代初期
生誕延暦18年(799年)
死没天長9年3月20日(832年4月24日)
別名家雄
官位従四位上・左兵衛督
主君嵯峨天皇→淳和天皇
氏族藤原式家
父母父:藤原緒嗣
母:蔵垣人山(または企)娘
兄弟家緒、春津、本雄、忠宗、正子、
藤原常嗣室
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藤原 家緒(ふじわら の いえお)は、平安時代初期の貴族。名は家雄とも記される[1]。藤原式家、左大臣・藤原緒嗣の長男。官位は従四位上・左兵衛督。 弘仁13年(822年)従六位上から三階昇進して従五位下に叙爵し、美濃介に任ぜられる。 弘仁14年(823年)従兄弟に当たる淳和天皇が即位すると、従五位上・右近衛少将に叙任。天長3年(826年)正五位下次いで従四位下と一挙に昇進し、左兵衛督に任ぜられる。天長8年(831年)蔵人頭、天長9年(832年)正月に従四位上に叙任され公卿の座を目前にするが、同年3月20日に没した。享年34。最終官位は左兵衛督従四位上。 父・緒嗣の家風を受け継ぎ清廉な性格であった。典籍を非常によく学んだ事に加え、歩射も得意とした。大臣として朝政への参画を期待されたが、早逝したため果たせずに終わった[2]。 なお、これらの評は『日本後紀』に記されたものだが、その『後紀』の撰者は父である緒嗣であり、早世した自らの子を国史で評文した記事という事になる。 『日本後紀』による。
目次
1 経歴
2 人物
3 官歴
4 脚注
5 出典
経歴
人物
官歴
時期不詳:従六位上
弘仁13年(822年) 正月7日:従五位下。日付不詳:美濃介
弘仁14年(823年) 11月20日:従五位上。日付不詳:右近衛少将
天長3年(826年) 8月13日:正五位下。8月21日:従四位下。日付不詳:左兵衛督
天長8年(831年) 7月:蔵人頭[3]。日付不詳:兼伊予守
天長9年(832年) 正月7日:従四位上。3月20日:卒去(官位は左兵衛督従四位上)
脚注^ 『尊卑分脈』では家緒、『類聚国史』『日本紀略』では家雄とする。
^ 『日本後紀』天長9年3月20日条
^ 『蔵人補任』
出典
森田悌『日本後紀 (下)』講談社〈講談社学術文庫〉、2007年
更新日時:2019年1月14日(月)09:23
取得日時:2019/01/24 20:53
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