凡例藤原家依
時代奈良時代
生誕天平15年(743年)
死没延暦4年6月20日(785年7月30日)
官位従三位・参議
主君称徳天皇→光仁天皇→桓武天皇
氏族藤原北家
父母父:藤原永手、母:藤原鳥養娘
兄弟家依、雄依、曹司、藤原巨勢麻呂室、
藤原内麻呂室
妻藤原良継娘、鷹高佐美丸娘
子三起、吉継、上列、末茂、仲子
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藤原 家依(ふじわら の いえより)は、奈良時代の公卿。藤原北家、左大臣・藤原永手の長男。官位は従三位・参議。 天平神護元年(764年)美濃介を務めていた際、称徳天皇の重祚に伴う大嘗祭で美濃国が由機(悠紀)に定められた事から、国守の小野竹良と共に昇叙され、家依は従五位下に叙爵される[1]。翌天平神護2年(765年)式部少輔兼侍従に任ぜられる。こののち大和守・丹波守と地方官も兼務する一方、神護景雲3年(769年)正五位下次いで正五位上、神護景雲4年(770年)従四位下と、称徳朝末にかけて急速に昇進する。 宝亀元年(770年)光仁天皇の即位に伴い従四位上に昇叙される。のち、皇后宮大夫・式部大輔・治部卿・右衛門督を歴任する間、宝亀6年(775年)正四位下、宝亀7年(776年)正四位上と昇進し、宝亀8年(777年)参議に任ぜられ公卿に列す。 天応元年(781年)従三位・兵部卿に叙任。桓武朝では、後任の参議であった大伴家持・藤原小黒麻呂・藤原種継らが次々と中納言に任ぜられる傍らで、家依は参議から昇進できないまま、延暦4年(785年)6月20日薨去。享年43[2]。最終官位は参議兵部卿従三位兼侍従下総守。 『続日本紀』による。 『尊卑分脈』による。
目次
1 経歴
2 官歴
3 系譜
4 脚注
5 出典
経歴
官歴
時期不詳:正六位上。美濃介
天平神護元年(764年)11月23日:従五位下
神護景雲2年(768年)2月18日:侍従兼式部少輔
時期不詳:従五位上
神護景雲3年(769年)2月3日:正五位下。8月19日:兼大和守。11月9日:正五位上
神護景雲4年(770年)6月3日:式部大輔。7月21日:従四位下。8月4日:装束司(称徳天皇崩御)。8月22日:兼丹波守。10月1日:従四位上
宝亀2年(771年)正月23日:兼皇后宮大夫。閏3月1日:式部大輔兼近江守
宝亀5年(774年)3月5日:治部卿
宝亀6年(775年)正月16日:正四位下
宝亀7年(776年)正月7日:正四位上。3月6日:兼衛門督
宝亀8年(777年)10月13日:参議
時期不詳:兵部卿兼侍従
天応元年(781年)5月25日:兼下総守。7月10日:兵部卿。10月13日:従三位。12月23日:装束司(光仁上皇崩御)
延暦4年(785年) 6月20日:薨去(参議兵部卿従三位兼侍従下総守)
系譜
父:藤原永手
母:藤原鳥養の娘
妻:藤原良継の娘
男子:藤原三起[3][4]
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