藤原実綱_(公教男)
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この項目では、平安時代後期の公卿について説明しています。平安時代中期の文人については「藤原実綱」を、室町時代の公卿については「三条実綱」をご覧ください。

 凡例藤原実綱
時代平安時代後期
生誕大治3年(1128年)?
死没治承4年12月19日1181年1月13日
改名実経→実綱
別名二条中納言
官位正三位権中納言
主君崇徳天皇近衛天皇後白河天皇二条天皇六条天皇高倉天皇安徳天皇
氏族三条家
父母父:三条公教、母:林覚娘・昭月
兄弟実綱、滋野井実国、j子、三条実房
実円、公祐、松殿基房正室、
松殿基房室、藤原俊憲
二条院三河内侍藤原通基
子三条教綱、三条公仲、三条公方、教子、七条院大納言
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藤原 実綱(ふじわら さねつな)は、平安時代後期の公卿歌人内大臣三条公教の長男。官位正三位権中納言。二条中納言と称される。目次

1 経歴

2 系譜

3 脚注

4 参考文献

経歴

生年は不詳ながら、卒年が53(『公卿補任』)、54(『尊卑分脈』)、もしくは55(『山槐記』)とあることから、大治元年?3年の生まれと推測される。父・公教は大治元年に蔵人頭となっている。母は僧侶林覚の娘で、源有仁の家の女房であった。有仁は藤原公実の娘を室としており、閑院流と親密な関係にあった。

始め実経と言い、祖父・三条実行の子となり、保延4年(1138年)叙爵、同6年に少納言に任じられたが、昇進は遅く、異母弟の滋野井実国(1140年生)や三条実房(1147年生)に大きく遅れた。長寛元年(1163年)、実綱と改名。40歳近い仁安元年(1166年)11月になってようやく蔵人頭に任じられ、翌年2月に参議となり右大弁を兼任、翌3年8月に従三位嘉応2年(1170年)正月に左大弁と昇進する。この年に行なわれた住吉社歌合において、弟らに越されていることを嘆いた「いかなれば 我がひとつらの かかるらむ うらやましきは 秋の雁金」という和歌を詠んだが、この歌は『十訓抄』および『古今著聞集』に取り上げられている。また、承安3年(1173年)正月には徳大寺公能の子・実守(1147生)に位階を超越されたが、『古今著聞集』によれば、承安2年正月の広田社歌合にて、「位山 のぼればくだる 我身かな 最上川漕ぐ 舟ならなくに」と詠んだためではないかと噂になったという。承安4年正月に正三位昇進。

この間、後白河院に近臣として仕え、阿波権守伊予権守を歴任する。安元元年(1175年)11月、実国・実房に遅れること10年にして権中納言に任じられる。この頃、邸宅を五条大宮西の角に置いていたが、安元3年の大火で焼失した。

治承3年(1179年)11月、治承三年の政変により権中納言を解任される。翌4年8月に復任したが、12月19日に急死した。『山槐記』によれば、復任後も出仕せず、法華経千部供養を行ない、毎日欠かさず念仏を一万遍唱えていたという。

妻とした三河内侍は二条院の典侍を勤めた後、実綱異母妹の後白河院女御j子(三条女御)のもとに仕えていた。娘の七条院大納言は公教の猶子となり、後鳥羽院の歌壇で活躍した。

周防国多仁荘(現山口県熊毛郡田布施町)を領有していたことが知られる[1]
系譜

父:
三条公教

母:昭月 - または照月と号す。僧・林覚娘。源有仁家女房

妻:二条院三河内侍 - 藤原為業または範玄の娘

男子:三条公仲 - 東寺長者実瑜等の父

女子:七条院大納言


妻:藤原通基

生母不明の子女


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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