藤原実方
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 凡例藤原 実方
藤原実方(菊池容斎前賢故実』より)
時代平安時代中期
生誕不詳
死没長徳4年12月13日999年1月3日
墓所宮城県名取市北野の中将実方朝臣の墓
官位正四位下左近衛中将
主君花山天皇一条天皇
氏族藤原北家小一条流
父母父:藤原定時、母:源雅信の娘
養父:藤原済時
兄弟実方、実光、鈴木重実[1]
朝元、こそぎみ、賢尋、貞叙、義賢、
菅原定義室、行資(姓不明)室
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.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ウィキクォートに藤原実方に関する引用句集があります。

藤原 実方(ふじわら の さねかた)は、平安時代中期の貴族歌人左大臣藤原師尹の孫、侍従藤原定時の子。官位正四位下左近衛中将中古三十六歌仙の一人。
経歴

父・定時が早逝したため、叔父で大納言藤原済時の養子となる。

左近衛将監を経て、天禄4年(973年従五位下叙爵し、天延3年(975年侍従に任ぜられる。その後は、右兵衛権佐・左近衛少将・右近衛中将と武官を歴任する傍らで、天元5年(982年)従五位上、永観元年(983年正五位下寛和2年(986年従四位下と順調に昇進する。

正暦4年(993年)従四位上、翌正暦5年(994年)には左近衛中将に叙任され公卿の座を目前にするが、長徳元年(995年)正月に突然陸奥守左遷される。同年3月から6月にかけて、養父・済時を始めとして、関白藤原道隆道兼の兄弟、左大臣源重信、大納言・藤原朝光、大納言・藤原道頼ら多数の大官が疫病の流行等により次々と没するが、養父・済時の喪が明けた9月に陸奥国に出発した。なお、赴任の奏上に際して正四位下に叙せられている。

左遷を巡っては、一条天皇の面前で藤原行成和歌について口論になり、怒った実方が行成の冠を奪って投げ捨てるという事件が発生[2]。このために実方は天皇の怒りを買い、「歌枕を見てまいれ」と左遷を命じられたとする逸話がある[3]。しかし、実方の陸奥下向に際して天皇から多大な餞別を受けた事が、当の口論相手の行成の日記『権記』に克明に記されている事から、左遷とは言えないとの説もある。さらにこの逸話では、口論に際して取り乱さず主殿司に冠を拾わせ事を荒立てなかった行成が、一条天皇に気に入られて蔵人頭に抜擢されたとされるが、実際の任官時期は同年8月29日と実方の任官と8ヶ月も開きがあり、さらにその任官理由は源俊賢の推挙ともされる事から[4]、逸話と事実に不整合がある。これらの事から、後世都人の間に辺境の地で客死した実方への同情があり、このような説話(後述の死後亡霊となった噂や、雀に転生した話も含め)の形成に繋がったと考える説がある[5]


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