藤原定家
[Wikipedia|▼Menu]

 凡例藤原 定家
伝藤原信実筆 鎌倉時代
時代平安時代末期 - 鎌倉時代初期
生誕応保2年(1162年
死没仁治2年8月20日1241年9月26日
改名光季→季光→定家→明静(法名)
別名京極殿、京極中納言、八座沈老[1]
墓所京都府京都市上京区相国寺
官位正二位権中納言
主君二条天皇六条天皇高倉天皇安徳天皇後鳥羽天皇土御門天皇順徳天皇仲恭天皇後堀河天皇四条天皇
氏族藤原北家御子左流
父母父:藤原俊成、母:美福門院加賀(藤原親忠女)
兄弟成家、定家 ほか
藤原季能女、藤原実宗
光家為家因子 ほか
テンプレートを表示

藤原 定家(ふじわら の さだいえ/ていか)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公家歌人藤原北家御子左流正三位藤原俊成の二男。最終官位正二位権中納言。京極殿または京極中納言と呼ばれた。『小倉百人一首』の撰者で権中納言定家を称する。
概要

平安時代末期から鎌倉時代初期という激動期を生き、歌道における御子左家の支配的地位を確立。日本の代表的な歌道の宗匠として永く仰がれてきた。

2つの勅撰和歌集新古今和歌集』『新勅撰和歌集』を撰進したほか、秀歌撰に『定家八代抄』がある。歌論書に『毎月抄』『近代秀歌』『詠歌大概』があり、本歌取りなどの技法や心と詞との関わりを論じている。家集に『拾遺愚草』がある。拾遺愚草は六家集のひとつに数えられる。また、宇都宮頼綱に依頼され『小倉百人一首』を撰じた。定家自身の作で百人一首に収められているのは、「来ぬ人を まつほの浦の夕凪に 焼くや藻塩の 身もこがれつつ」。

一方で、『源氏物語』『土佐日記』などの古典の書写・注釈にも携わった(この際に用いた仮名遣いが定家仮名遣のもととなった)。また、『松浦宮物語』の作者は定家とする説が有力である。

18歳から74歳までの56年にわたる克明な日記『明月記』(2000年に国宝に指定)を残した[注 1]。このうち、建仁元年(1201年)に後鳥羽天皇熊野行幸随行時に記した部分を特に『熊野御幸記』(国宝)と呼ぶ。
経歴
若年期

後白河院政期前期の仁安元年(1166年従五位下叙爵する。安元元年(1175年)2月に流行していた赤斑瘡を患うが、同年父・俊成右京大夫辞任に伴って侍従任官し官途のスタートを切る。しかし、翌安元2年(1176年)俊成が咳病の悪化により出家したため、定家は後ろ盾を失い昇進面で大きな痛手を受けた。さらに安元3年(1177年)定家は疱瘡にかかって二度目の大病を経験し、以降はしばしば呼吸器疾患に苦しむなど肉体的に虚弱な体質となるとともに、神経質感情に激する傾向が現れるようになったという[3]

治承3年(1179年賀茂別雷神社の広庭で行われた会に歌合として初めて参加し、藤原公時と組んで引き分けとなった。また、養和元年(1181年)『初学百首』を詠むと、翌寿永元年(1182年)俊成の命令により、まとまった歌作として初めての作品となる『堀河院題百首』を作っている。これに対しては、父・俊成、母・美福門院加賀のほか、藤原隆信・藤原定長(寂蓮)・俊恵ら諸歌人からも賞賛を受け、さらには右大臣九条兼実からも賛辞の手紙を送られた[4]。またこの間に俊成の和歌の弟子である藤原季能の娘と結婚し、 寿永3年(1184年)に長男の光家を儲けるとともに[5]、治承4年(1180年)従五位上、寿永2年(1183年正五位下に昇叙されている。
九条家への出仕

文治元年(1185年)11月末に新嘗祭の最中に殿上で少将・源雅行に嘲笑されたことに激怒し、脂燭を持って雅行の顔を殴ったため、勅勘を受けて除籍処分を受ける事件を行こす。これに対して、翌文治2年(1186年)3月に俊成が後白河法皇の側近である左少弁・藤原定長に取りなしを依頼したところ、法皇から赦免の返歌があったという[6]。なお、俊成の赦免嘆願の書状は現存しており[7][8]重要文化財に指定されている(香雪美術館所蔵)[9][10]

同年より親幕府派の摂政九条兼実を主とする九条家家司として出仕を始める[11]。九条家では兼実次男の九条良経に親しく仕えて外出に常に従ったほか、和歌を通して兼実弟の慈円とも交渉が深かった。定家は九条家に家司として精励して務める一方で、文治5年(1189年左近衛少将、文治6年(1190年従四位下、建久6年(1195年)従四位上、正治2年(1200年正四位下と、後白河法皇の没後政権を掌握していた九条兼実の庇護を受けて順調に昇進した。

またこの頃には、『二見浦百首』『皇后宮大夫百首』『閑居百首』(藤原家隆と共作)など歌人として目覚ましい活躍を見せる一方、九条家への出仕後日が浅いにもかかわらず九条兼実の連歌の席に出席するなど、家人同様に重宝がられた様子が窺われる[12]。また、文治5年(1189年)には慈円の『早卒露肝百首』に対して、『奉和無動寺法印早卒露肝百首』『重早卒露肝百首』を著した[13]。なお、建久5年(1194年)ごろに定家は季能の娘と離別して、西園寺実宗の娘と結婚し、建久6年(1195年)に長女の因子が生まれている[14]
後鳥羽院政期

建久7年(1196年)反幕府派の内大臣源通親による建久七年の政変が起こると、九条兼実が関白を罷免され、太政大臣藤原兼房天台座主・慈円も要職を辞任した[15]。さらに、定家の義兄弟である蔵人頭西園寺公経左馬頭・藤原隆保も出仕を止められるなど、通親の圧迫は定家の近辺にまで及んだ[16]。この政変に伴う定家自身への影響は明らかでないが、九条兼実に連座して除籍処分を受けた可能性も指摘されている[17]

正治元年(1199年)頃より後鳥羽上皇の和歌に対する興味が俄に表面化し、正治2年(1200年)院初度御百首が企画される。当初、藤原季経六条家の策謀を受けて、源通親は定家を敢えて参加者から外したが、義弟・西園寺公経や父・俊成らの運動もあり、ようやく定家は参加を許される[18]。翌建仁元年(1201年千五百番歌合にも定家は参加して詠進を行い、いずれも後鳥羽上皇から好みにあったとの評価を受けている[19]。また同年には勅撰和歌集の編纂を行うことになり、定家は源通具らとともに院宣を受けて撰者に選ばれる。元久元年(1204年)勅撰集の名称として『新古今和歌集』を上申、いったん歌集は完成し、定家の和歌作品は41首が入集した[20]。なおその後、歌集に対して追加の切り継ぎが行われ、最終的に47首が採録されている[21]

一方で、建仁2年(1202年)定家は源通親宛に内蔵頭・右馬頭・大蔵卿いずれかの任官を望んで申文を提出したり[22]、当時強い権勢を持っていた藤原兼子(後鳥羽天皇の乳母)に対しても仮名状を送ったほか、兼子が病臥していると聞くと束帯姿で見舞いに行くなど、猟官を目的に権力者の意を迎えるために腐心した[23]。同年10月に源通親が没して政局は動揺した一方で、執拗な運動の効果があったためか、翌閏10月に定家は左近衛少将から左近衛権中将への昇任を果たしている[24]

中将在任は8年に亘るが蔵人頭への任官は叶わず、承元4年(1210年)正月に嫡男・為家の左近衛権少将任官の代わりに、定家は左近衛権中将を辞退するが、同年12月に年来の希望であった内蔵頭に任ぜられる。次に定家は公卿昇進を望んで、姉・九条尼から讃良荘(現在の大阪府四條畷市付近)・細川荘(現在の兵庫県三木市の東北方)の両荘園を藤原兼子に贈与する約束を行うなど猟官運動を続け、建暦元年(1211年従三位侍従に叙任されて50歳にして公卿に列した[25]

その後も、兼子に対する猟官運動が奏功して[26]建保2年(1214年参議に任ぜられて、父・俊成が得られなかった議政官への任官を果たすと、建保4年(1216年正三位に昇叙され、承久2年(1220年播磨権守を兼ねるなど、後鳥羽院政期において主家である九条家や外戚の西園寺家が沈滞する中でも定家は順調な官途を歩んだ。しかし、定家は昇進面で不満を持っていたらしく、承久2年(1220年)2月に行われた内裏歌合に官途に対する不満を託した和歌を持参したところ、後鳥羽上皇の逆鱗に触れて勅勘を受け、和歌の世界での公的活動を封じられてしまった[27][注 2]
承久の乱以降

承久3年(1221年承久の乱が起こると、後鳥羽上皇は配流され藤原兼子は失脚する一方で、権勢は定家の義兄弟である西園寺公経に移り、定家の主家である九条家も勢いを盛り返すなど、定家にとって非常に幸運な時代となる[29]。承久4年(1222年)参議を辞して従二位に叙せられると、嘉禄3年(1227年)には正二位に至った。正二位への昇進に際して定家は、承久の乱がなかったらこの叙位はなかったであろう、との感想を残している。さらに、70歳を越えても官位への執着が衰えなかった定家は権中納言への任官を望んで、寛喜2年(1230年)自らは老体のため妻に日吉神社への参籠祈念をさせ、翌寛喜3年(1231年)歩行困難の中で人に縋り付くようにして春日詣を行うなどする一方で、関白・九条道家に猛運動を行う[29]

こうしてついに、 寛喜4年(1232年)正月に71歳で権中納言に任ぜられる。権中納言在任時の『明月記』の記述はほとんど現存しないものの、他の記録や日記によって定家がたびたび上卿の任を務め、特に石清水八幡宮に関する政策においては主導的な地位にあったことが知られている。また、貞永改元四条天皇践祚などの重要な議定にも参加している。しかし、九条道家との間で何らかの対立を引き起こしたらしく[30]、同年の12月には権中納言を罷免されてしまい官界を退く[31]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:102 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef