凡例藤原 定家
伝藤原信実筆 鎌倉時代
時代平安時代末期 - 鎌倉時代初期
生誕応保2年(1162年)
死没仁治2年8月20日(1241年9月26日)
改名光季→季光→定家→明静(法名)
別名京極殿、京極中納言、八座沈老[1]
墓所京都府京都市上京区相国寺
官位正二位、権中納言
主君二条天皇 → 六条天皇 → 高倉天皇 → 安徳天皇 → 後鳥羽天皇 → 土御門天皇 → 順徳天皇 → 仲恭天皇 → 後堀河天皇 → 四条天皇
氏族藤原北家御子左流
父母父:藤原俊成、母:美福門院加賀(藤原親忠
藤原 定家(ふじわら の さだいえ/ていか)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公家・歌人。藤原北家御子左流、正三位・藤原俊成の二男。最終官位は正二位・権中納言。京極殿または京極中納言と呼ばれた。『小倉百人一首』の撰者で権中納言定家を称する。 平安時代末期から鎌倉時代初期という激動期を生き、歌道における御子左家の支配的地位を確立。日本の代表的な歌道の宗匠として永く仰がれてきた。
概要
一方で、『源氏物語』『土佐日記』などの古典の書写・注釈にも携わった(この際に用いた仮名遣いが定家仮名遣のもととなった)。また、『松浦宮物語』の作者は定家とする説が有力である。
18歳から74歳までの56年にわたる克明な日記『明月記』(2000年に国宝に指定)を残した[注 1]。このうち、建仁元年(1201年)に後鳥羽天皇の熊野行幸随行時に記した部分を特に『熊野御幸記』(国宝)と呼ぶ。 後白河院政期前期の仁安元年(1166年)従五位下に叙爵する。安元元年(1175年)2月に流行していた赤斑瘡を患うが、同年父・俊成の右京大夫辞任に伴って侍従に任官し官途のスタートを切る。しかし、翌安元2年(1176年)俊成が咳病の悪化により出家したため、定家は後ろ盾を失い昇進面で大きな痛手を受けた。さらに安元3年(1177年)定家は疱瘡にかかって二度目の大病を経験し、以降はしばしば呼吸器疾患に苦しむなど肉体的に虚弱な体質となるとともに、神経質で感情に激する傾向が現れるようになったという[3]。 治承3年(1179年)賀茂別雷神社の広庭で行われた会に歌合として初めて参加し、藤原公時と組んで引き分けとなった。また、養和元年(1181年)『初学百首』を詠むと、翌寿永元年(1182年)俊成の命令により、まとまった歌作として初めての作品となる『堀河院題百首』を作っている。これに対しては、父・俊成、母・美福門院加賀のほか、藤原隆信・藤原定長(寂蓮)・俊恵ら諸歌人からも賞賛を受け、さらには右大臣・九条兼実からも賛辞の手紙を送られた[4]。またこの間に俊成の和歌の弟子である藤原季能の娘と結婚し、 寿永3年(1184年)に長男の光家を儲けるとともに[5]、治承4年(1180年)従五位上、寿永2年(1183年)正五位下に昇叙されている。 同年より親幕府派の摂政・九条兼実を主とする九条家に家司として出仕を始める[11]。九条家では兼実次男の九条良経に親しく仕えて外出に常に従ったほか、和歌を通して兼実弟の慈円とも交渉が深かった。定家は九条家に家司として精励して務める一方で、文治5年(1189年)左近衛少将、文治6年(1190年)従四位下、建久6年(1195年)従四位上、正治2年(1200年)正四位下と、後白河法皇の没後政権を掌握していた九条兼実の庇護を受けて順調に昇進した。 またこの頃には、『二見浦百首』『皇后宮大夫百首』『閑居百首』(藤原家隆と共作)など歌人として目覚ましい活躍を見せる一方、九条家への出仕後日が浅いにもかかわらず九条兼実の連歌の席に出席するなど、家人同様に重宝がられた様子が窺われる[12]。また、文治5年(1189年)には慈円の『早卒露肝百首』に対して、『奉和無動寺法印早卒露肝百首』『重早卒露肝百首』を著した[13]。なお、建久5年(1194年)ごろに定家は季能の娘と離別して、西園寺実宗の娘と結婚し、建久6年(1195年)に長女の因子が生まれている[14]。 建久7年(1196年)反幕府派の内大臣・源通親による建久七年の政変が起こると、九条兼実が関白を罷免され、太政大臣・藤原兼房と天台座主・慈円も要職を辞任した[15]。
経歴
若年期
九条家への出仕を持って雅行の顔を殴ったため、勅勘を受けて除籍処分を受ける事件を行こす。これに対して、翌文治2年(1186年)3月に俊成が後白河法皇の側近である左少弁・藤原定長に取りなしを依頼したところ、法皇から赦免の返歌があったという[6]。なお、俊成の赦免嘆願の書状は現存しており[7][8]、重要文化財に指定されている(香雪美術館所蔵)[9][10]。
後鳥羽院政期