藤原定子
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「藤原定子」とも呼ばれる後西天皇の妃の「梅小路定子」、「藤原定子」とも呼ばれる桜町天皇の妃、桃園天皇の生母の開明門院「姉小路定子」、あるいは「藤原呈子」とは別人です。

藤原 定子
枕草子絵詞(14世紀初頭)
第66代天皇后
皇后(中宮)正暦元年10月5日990年10月26日
皇后(皇后宮)長保2年2月25日1000年4月2日

誕生貞元1年(976年
崩御長保2年12月16日[1]1001年1月13日

陵所鳥戸野陵
諱定子(さだこ/ていし)
別称一条院皇后宮
氏族藤原氏北家中関白家
父親藤原道隆
母親高階貴子
配偶者一条天皇
入内正暦元年1月25日990年2月23日
子女脩子内親王
敦康親王
?子内親王
身位女御皇后(中宮→皇后宮)
立后前位階従四位
宮廷女房清少納言
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藤原 定子(ふじわら の さだこ/ていし[2]976年貞元1年〉-1001年1月13日長保2年12月16日[1][注釈 1])は、日本の第66代天皇一条天皇皇后(号は中宮、のち皇后宮)。脩子内親王敦康親王?子内親王の生母。通称は一条院皇后宮。
系譜

関白の内大臣正二位藤原道隆の長女、母は式部大輔高階成忠の女・正三位貴子。正二位内大臣伊周、正二位中納言隆家は同母兄弟。
生涯

永祚元年(989年)父方の祖父である摂政兼家の腰結いで着裳、その時はじめて歴史の表舞台に登場する。正暦元年1月25日[3]990年2月23日)、数え15歳の春に、4歳年下の一条天皇に入内し[注釈 2]、まもなく従四位下に叙せられ、ついで2月11日には女御となる[3]。局は登華殿(一説に梅壺、または両方とも)。

同年10月5日(990年10月26日[注釈 3]、皇后に冊立され「中宮」を号した。なお、定子は一条天皇の皇后として「中宮」を号したのであり、立后のにも「皇后」と明記された。正暦元年当時、律令が定める「三后」のうち、太皇太后は3代前の帝の正妻・昌子内親王皇太后は当帝の生母・藤原詮子、中宮は先々代の帝の正妻・藤原遵子であった。定子の立后は無理なはずだが、道隆はその中に割り込んで定子を立后させるために、本来皇后の別名である「中宮」の称号を皇后から分離させ定子の立后を謀り、また遵子に付属した「中宮職」を改めて「皇后宮職」とし、「中宮職」を定子のために新設し前代未聞の「四后並立」にしてしまった。その結果、「往古不聞事」である(両漢の間)皇后四人の例を作り出して世人の反感を招いた[注釈 4]。また、道隆は弟の藤原道長中宮大夫に命じて定子を補佐させようとしたが、道長は父の喪中を理由に立后の儀式を欠席している。世の人々は道長の態度を気丈な事であると賞賛した。のちに道長が「皇后」と「中宮」の区別により「一帝二后」としたが、その元を作ったのが定子の父道隆である。同じ年の5月(6月か7月)には、父・道隆が祖父兼家の亡き後を継いで摂政・氏長者に就任しており、道隆一族は栄華を謳歌することとなった。

定子の母貴子は円融朝に掌侍を勤めて高内侍と称された人で、女ながらに漢文を能くし、殿上の詩宴にもに招かれるほどであった。また、定子の父道隆は、「猿楽言」(冗談)を好み大酒のみで陽気だが、政治のやり方は自身の子の出世に強引で、死後の評価は低い。正暦4年頃(994年頃)から定子の死去まで彼女に仕えた女房清少納言が著した随筆『枕草子』は、彼女の外面的・人格的類なき魅力を記しているが[注釈 5]、時日との照合的に創作点は多いと見られる。実際長徳四年(998年)宮中を疱瘡が走り、定子も罹患した。然れども、定子と清少納言との主従関係は、御堂流摂関家寄りの視点を貫く『古今著聞集』に引かれる「香炉峰の雪」の逸話でも明らかな通り、のちの時代では一層程度を増して長く君臣一致の理想的な有り方とされて来たのである(鈴木日出男説)。

夫・一条天皇とは父道隆が定子以外の入内を許さず最初は定子の独壇場であったが、道隆が没すると他の娘も入内し承香殿女御元子弘徽殿女御義子より寵愛を受ける(『栄花物語』『詞花和歌集』)。一条天皇と定子・彰子のふたりの正妃の仲はいずれも良好で、機知を愛し風雅を重んじる一条朝の宮廷の風潮が見られた。その中でもとくに定子と仲が良かった風を平安の資料は伝えている[注釈 6]

長徳元年4月10日995年5月12日)、関白であった定子の父・道隆が、ついで定子の叔父・道兼が急死すると、その弟道長と定子の兄・伊周が権力を争う。伊周は道長を呪詛[5]、その弟・隆家の従者が道長の随身を殺害するなど、中関白家は荒れていた。翌長徳2年正月には定子の兄・内大臣伊周、弟・中納言隆家らが花山院奉射事件を起こす(長徳の変)。当時懐妊中の定子は内裏を退出し里第二条宮に還御したが、その時ほとんどの公卿はお供の行列に参加しなかった[4]。二条宮では、4月24日に左遷の命を受けても病気だと偽り一向に出発しない兄・伊周と弟・隆家をかくまう。ついに一条天皇より強制捜査の宣旨が下り、5月1日、二条宮を検非違使が捜査[注釈 7]。隆家は捕らえられ、伊周は出ていたが戻ってきて従う。この日、定子は自ら鋏を取り落飾した。儀同三司が筑紫に、中納言隆家が出雲に流罪されていた折に送ったという「煙のなみ雲のなみのたちへたて 会ひ見むことのかたくもあるかな」(『続古今集』)の歌を詠んだのも同じころであるか。

同年夏に二条宮が全焼し、10月には母・貴子も没するなどの不幸が相続く中、定子は長徳2年12月16日997年1月27日)、第一子・脩子内親王を出産した(予定の出産に大幅に遅れ、この時、世の人は中宮が「懐妊十二月」と噂した)。

その後、長徳3年4月になって伊周らの罪は赦され、また一条天皇は誕生した第一皇女・脩子内親王との対面を望み、周囲の反対を押し退け、同年6月、再び定子を宮中に迎え入れた。これについて、『栄花物語』は天皇の心情を体した東三条院や道長の勧めがあったとし、また高二位(高階成忠、中宮外祖)が吉夢(皇子誕生の夢)を見たとしてためらう定子を駆き立てたという。中宮御所は清涼殿からほど遠い中宮職の御曹司と決められたが、そこは「内裏の外、大内裏の内」という厳密には「後宮」といえない処に位置し、その上母屋に鬼がいたという不気味な建物[6]で、中宮付き官人の事務所に使われることはあっても、后妃の寝殿に宛てがわれることは無かった。


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