藤原宗輔
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 凡例藤原宗輔
天子摂関御影
時代平安時代後期
生誕承暦元年(1077年
死没応保2年1月30日1162年2月15日
別名蜂飼大臣、堀河、京極
官位従一位太政大臣
主君堀河天皇鳥羽天皇崇徳天皇近衛天皇後白河天皇二条天皇
氏族藤原北家中御門流中御門家
父母父:藤原宗俊、母:源俊房の娘
兄弟宗忠、忠良、宗輔、相命
妻正室:橘俊基の娘
藤原宗忠の娘
俊通、俊基、俊成、宗延、宗実、覚珠、宗信、宗恵、若御前
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藤原 宗輔(ふじわら の むねすけ)は、平安時代後期の公卿藤原北家中御門家(松木家)の祖、権大納言藤原宗俊の子。官位従一位太政大臣。堀河または京極と号する。「蜂飼大臣(はちかいおとど)」の異名で『今鏡』『十訓抄』にも登場する。
経歴

漢籍有職故実に通じ、音楽に秀で、かつ控えめな人物であったが、非常な健脚であり、そのほか個性的な逸話を数多く残した。

嘉保2年(1096年)、まだ五位蔵人という低い官職の時に父・宗俊が死去、さらに側近として仕え主君でありを通じた友人でもあった堀河天皇が早世するなどの不幸もあり、昇進が遅れ46歳でようやく参議として公卿に列した。大治3年(1129年)の除目では、宗輔が外戚の伯父である源師頼の任官された職務を誤って書き写した公文書を作成してしまい、除目のやり直しが行われた。

平素からあまり政治に口出しすることはなく、趣味の世界に没頭していく。音楽においては、笛や琵琶に秀でており、当人も「死ぬのは怖くないが、笛が吹けなくなるのが困る」と語った。また、娘・若御前も父に勝るとも劣らない才能を持ち(「若御前」とは、鳥羽法皇が彼女の曲を聞くために男装をさせて御所に上げさせた事に由来している)、後に当代随一の音楽家として名を残した藤原師長頼長の子、後の太政大臣)もこの親子から箏を習った。

もう一つの趣味は自然への親しみであった。公家が自ら草花を育てる事は考えられなかったが、宗輔は自ら牡丹を育てて、藤原頼長鳥羽上皇ら親しい人々に献上している。何よりも人々を驚かせたのはを飼いならしていたと言う話である。当時の日本にも養蜂は伝わっていたとはいえ、『古事談』ではそれを「無益な事」と人々から嘲笑されていたが、宮廷に蜂が大発生した際に宗輔だけが冷静に蜂の好物である枇杷を差し出したところ、蜂はその蜜を吸って大人しくなったと伝え、『十訓抄』では飼っている蜂の一匹一匹に名前を付けては自由に飼い慣らして、気に入らない人間を蜂に命じて刺させたとしている。

宗輔が権中納言であった56歳の時に、関白藤原忠実の子で僅か13歳の頼長が同僚となった。43歳と親子以上の年齢差があった二人であったが、才気に溢れて敵が多かった頼長に対して、宗輔は年長者として接し、頼長も宗輔に対して敬意を払った。この信頼関係は頼長が大臣に昇進した後も続き、頼長はしばしば宗輔と政治的な相談をしたり、子・師長への音楽の教授を依頼するなどの繋がりを深めた。頼長から見れば宗輔は高齢になってもなお職務を忠実にこなしている模範となる人物であり、大臣に昇進させないのはおかしい事であると鳥羽法皇らに度々奏上したが、頼長存命の間には実現しなかった。なお、久安5年(1149年藤原氏として初めて、淳和院別当に任じられている。

保元元年(1156年)、保元の乱によって頼長が討たれると、頼長側近の貴族らは宮廷から追放された。だが、その筆頭であった大納言宗輔には何の処分も下らなかった。既に宗輔は80歳の高齢であり、このような老人が反乱の企てに参加出来る訳が無いと、後白河天皇らから思われたからだと言われている。その数ヵ月後、頼長死亡に伴う人事異動によって右大臣に任命されたのである(これは平安時代を通じて大臣初任の最高齢記録である)。そして翌年には遂に太政官の最高位である太政大臣へと昇進する。

宗輔の太政大臣時代には後白河上皇と二条天皇の確執、院近臣間の対立など事態は激動し、やがて平治の乱が発生する。宗輔はその健脚を駆使して難局を乗り切り、84歳で引退するまで長い政治生活を送った。

堤中納言物語』に登場する「虫愛づる姫君」のモデルは宗輔・若御前父娘であるとされる。
系譜

父:
藤原宗俊

母:源俊房の娘

正室:備後守橘俊基の娘

男子:藤原俊通(1128-?)


妻:藤原宗忠の娘

生母不明の子女

男子:藤原俊基

男子:藤原俊成

男子:宗延

男子:宗実

男子:覚珠

男子:宗信

男子:宗恵

女子:若御前










太政大臣
皇親太政大臣

 白鳳時代 

大友皇子671-672

高市皇子690-696


刑部親王知太政官事)703-705

穂積親王(知太政官事)705-715

 奈良時代 

舎人親王(知太政官事)720-735

鈴鹿王(知太政官事)737-745


人臣太政大臣

奈良時代

藤原恵美押勝(太師)760-764

弓削道鏡(太政大臣禅師)765-766

平安時代

藤原良房857-872

藤原基経881-891

藤原忠平936-949

藤原実頼968-970

藤原伊尹971-972

藤原兼通974-977

藤原頼忠978-989

藤原兼家990

藤原為光991-992

藤原道長1017-1018

藤原公季1021-1029

藤原頼通1062

藤原教通1070-1071

藤原信長1080-1089

藤原師実1089

藤原忠実1113

源雅実1123-1124

藤原忠通1129

藤原忠通1149-1150

三条実行1150-1157

藤原宗輔1157-1160

藤原伊通1160-1165

平清盛1167

藤原忠雅1168-1170

松殿基房1171

藤原師長1177-1179

鎌倉時代

九条兼実1190

藤原兼房1191-1196

藤原頼実1199-1204

九条良経1205

藤原頼実1209

三条公房1218-1222

近衛家実1222

西園寺公経1222-1223

九条良平1238-1239

近衛兼経1241-1242

西園寺実氏1246-1247

久我通光1247-1248

鷹司兼平1252-1253


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