藤原基衡
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 凡例藤原 基衡
毛越寺所蔵/藤原基衡像(江戸時代
時代平安時代後期
生誕長治2年(1105年)?[注釈 1]
死没保元2年3月19日1157年4月29日[1]
別名基平、中御館平泉、出羽押領使
墓所中尊寺金色堂
官位出羽陸奥押領使
氏族奥州藤原氏
父母父:藤原清衡
母:北方平氏?(諸説あり。後述)
兄弟惟常(家清)、基衡、正衡清綱、男子、男子、娘(佐竹昌義室)、娘、娘[注釈 3]
妻継室?:安倍宗任の娘[3][注釈 4][注釈 5]
子男子?[注釈 6]秀衡十三秀栄[注釈 7]樋爪俊衡[注釈 8]徳姫岩城則道室)[注釈 9]
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藤原 基衡(ふじわら の もとひら)は、平安時代後期の豪族奥州藤原氏第2代当主。藤原清衡の次男に当たる。
生涯

天仁元年(1108年)、鳥羽上皇の勅宣により、出羽国寒河江荘慈恩寺に阿弥陀堂(常行堂)・釈迦堂(一切経堂)・丈六堂を新造し、鳥羽院より下賜された阿弥陀三尊を阿弥陀堂に、釈迦三尊と下賜された一切経五千余巻を釈迦堂に、基衡が奉納した丈六尺の釈迦像を丈六堂に安置したという[5]。だが、この逸話では基衡の年齢が幼すぎ、父・清衡が慈恩寺を再興したか、もしくは再興年に誤りがあるとみられる。
異母兄・惟常らとの争い

大治3年(1128年)に父清衡が死去。翌大治4年(1129年)、異母兄である惟常ら兄弟との争乱が記録されている。基衡は惟常の「国館」(国衙の事と思われる)を攻め、異母弟の圧迫に耐えかねた惟常は小舟に乗って子供を含め二十余人を引き連れて脱出し、越後国に落ち延びて基衡と対立する他の弟と反撃に出ようとするが、基衡は陸路軍兵を差し向け、逆風を受けて小舟が出発地に押し戻された所を捕らえ、惟常父子らを斬首したという[6]

この当時、惟常は跡継ぎを意味する「小館」と称されて独自の屋敷を構えており、対して基衡は「御曹司」と称されて清衡と同じ屋敷に住んでいたといわれている。今でこそ、「御曹司」という言葉は跡取りの意味合いが強いが、当時は「そこに住まう人」や「居候」という意味だった。後に源義経も「そこに住まう人」や「居候」という意味で「御曹司」と称されている。この観点から言えば、正当な家督相続者は惟常で基衡は簒奪者だった。また、長子相続が絶対の時代ではなかったため、このような事態は平然と起こり得た。

この内乱の背景について第一に考えられていることは、清原氏の娘を母に持つ惟常を担ぐ家臣団と、安部氏の娘を母に持つ基衡を担ぐ家臣団との小競り合いがあったということである。またそれぞれの家臣団は独立性が非常に強かったことから、奥州藤原氏の当主となった基衡は内乱終結後に当主の権力強化と確立、そしてそれによる家臣団の統制に乗り出すことになる。その過程で基衡を支えたのが、佐藤基治やその息子達の継信・忠信兄弟を輩出した信夫佐藤氏であった。
藤原師綱との諍い

康治元年(1142年)、藤原師綱陸奥守として赴任すると、陸奥国は「基衡、一国を押領し国司の威無きがごとし」(『古事談』)という状態であったので、事の子細を奏上し宣旨を得て信夫郡公田検注を実施しようとしたところ、基衡は信夫佐藤氏の一族であり、家人でもある地頭大庄司・季春(佐藤季春、または季治)に命じてこれを妨害し、合戦に及ぶ事件が発生する。


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