藤原基経
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 凡例藤原 基経
菊池容斎前賢故実』より
時代平安時代前期
生誕承和3年(836年
死没寛平3年1月13日891年2月24日
改名手古(幼名)→基経
別名堀川大臣、堀河大臣
諡号昭宣公(漢風号)、越前公(国公)
官位従一位摂政関白太政大臣
正一位
主君文徳天皇清和天皇陽成天皇光孝天皇宇多天皇
氏族藤原北家
父母父:藤原長良、母:藤原乙春
養父:藤原良房
兄弟国経遠経、基経、高経有子弘経淑子高子清経栄子
人康親王の娘
操子女王(忠良親王の娘)
子佳珠子、時平温子仲平兼平忠平、良平、穏子、頼子、佳美子、貞元親王妃、源能有
特記
事項朱雀村上天皇の外祖父
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藤原 基経(ふじわら の もとつね)は、平安時代前期の公卿藤原北家中納言藤原長良の三男。

摂政であった叔父・藤原良房の養子となり、良房の死後、清和天皇陽成天皇光孝天皇宇多天皇の四代にわたり朝廷の実権を握った。陽成天皇を暴虐であるとして廃し、光孝天皇を立て、政務を委任された。光孝天皇・宇多天皇期の執政は、日本史上初の関白であったとされる。
生涯

中納言・藤原長良の三男として生まれたが、時の権力者で男子がいなかった叔父・良房に見込まれて[1]、その養嗣子となった[注釈 1]

仁寿元年(852年)東宮で元服した際に、文徳天皇が自ら加冠する程の厚遇を受け、正六位上に叙される。斉衡年間(854年 - 857年)から天安年間(857年 - 859年)に左兵衛尉少納言左近衛少将を経て蔵人頭に補せられる。貞観年間(859年 - 877年)に左近衛中将を兼任し、参議に任ぜられて公卿に列する。
応天門の変

貞観8年(866年)、応天門の炎上に際し大納言伴善男左大臣源信を誣告し、右大臣藤原良相が左近衛中将であった基経に逮捕を命じるも、基経はこれを怪しみ養父・良房に告げ、良房の尽力によって信は無実となった。その後、密告があり、伴善男が真犯人とされ、流罪となり、連座した大伴氏紀氏が大量に処罰され、これら上古からの名族へ大打撃を与えた(応天門の変)。同年、従三位に叙し、中納言を拝す。
実権の獲得

その後、左近衛中将を兼ね、更に左近衛大将へ進み、陸奥出羽按察使を兼ねる。貞観12年(870年)大納言に転じる。貞観14年(872年右大臣を拝する。同年、摂政だった養父良房が薨去、代わって朝廷において実権を握った。基経の実妹・高子清和天皇女御で、第一皇子の貞明親王を生んでいた。翌年、従二位に叙される。

貞観18年(876年)清和天皇は貞明親王に譲位(陽成天皇)。まだ9歳と幼少であったため、良房の先例に従い新帝の伯父である基経は摂政に任じられた。基経は幼君を補佐するのは太上天皇の役割であるとこれを辞退したが清和上皇は許さず、摂政の任を受けることとなった[3]。一方で太政大臣への就任も求められているが、これは辞退している[4]元慶2年(878年)、出羽国蝦夷俘囚が反乱を起こしたため、能吏で知られた藤原保則、武人の小野春風らを起用し、翌年までにこれを鎮撫せしめた(元慶の乱)。また、元慶3年(879年)以降数年をかけて、約50年ぶりに班田収授を実施している。

元慶3年(879年)、菅原是善らと編纂した日本文徳天皇実録全10巻を完成させた。

元慶4年(880年)12月4日、清和上皇が没した当日に太政大臣に任ぜられ、陽成天皇は引き続き摂政の任に当たることを求めた[注釈 2]。しかし基経は就任を強く拒絶し、儀礼的な拝辞数を超えた4度に渡ってこれを拝辞した。更にこの間自宅に引き籠もったため、政務が滞ることとなった[4]。翌年、従一位に昇叙している[4]
陽成天皇との関係

元慶6年(882年)、陽成天皇が元服したことを受け、基経は摂政の辞職を申し出るが、許されなかった[4]。これはこの時代の記録によく見られる儀礼的な辞退ではなく、政治的な意味があったと考えられている[6]。その後、基経は辞職が認められないとみるや、朝廷への出仕を停止し、一年半に渡って自邸の堀河院に引き籠もってしまった。ただし、清和天皇の譲位のに「少主ノ未親万機之間」摂政に任ずると書かれている以上、元服を機に親政(天皇が万機を親らす)への準備を進めた後に辞表を提出し、その後に自宅に退いて天皇の判断を待つのは当然の行為で、しかも儀礼的な辞退の範囲とされる3度目の辞表提出中に天皇の退位騒動が起きたものであるとして、これをもって基経と天皇との関係の判断は出来ないとする反論もある[7]

基経は妹である皇太后藤原高子とは大変仲が悪かった。在原文子(清和の更衣)の重用を含めた高子の基経を軽視する諸行動が、基経が後に外戚関係を放棄をしてまでも高子とその子である陽成天皇を排除させるに至ったとの見方もある[8]。ただし、在原文子を更衣としてその間に皇子女を儲けたのは清和天皇自身である。高子が清和天皇との間に貞明親王(陽成天皇)・貞保親王敦子内親王を儲けたにもかかわらず、清和は氏姓を問わず、数多の女性を入内させ、多くの皇子を儲けていた。このことから基経も母方の出自が高くない娘・頼子を入内させ、さらに同じく出自の低い・佳珠子を入内させ、外孫の誕生を望んだために、高子の反発を招いたと見ることもできる。また、当時は摂関政治の成立期であり、母后である高子と摂政である基経の力関係は不安定なものであった。基経を摂政に任じた清和上皇が健在だった時期には基経と高子や天皇の不仲を伝える話はなく、上皇が崩御して母后である高子が天皇を後見して独自の行動を取り始めた頃から急速に関係が悪化しており、高子の権力行使が基経の政治権力を脅かしたとする見方もある[9]

元慶7年(883年)11月、宮中で天皇の乳母(紀全子)の子・源益が殺される事件が起きた。それが本当に殺人なのか、あるいは過失なのかは不明であり、また犯人も不明とされた。


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