藤原千晴
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 凡例藤原千晴
時代平安時代中期
生誕不詳
死没不詳
主君村上天皇冷泉天皇
氏族藤原不比等の四人の息子である藤原四兄弟の一人・藤原房前を先祖とする藤原氏の本流・藤原北家
父母父:藤原秀郷、母:不詳
兄弟千時、千常、千国、千種
子正頼?
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藤原 千晴(ふじわら の ちはる)は、平安時代中期の貴族軍事貴族)。藤原氏の本流・藤原北家の先祖である藤原房前の次男・藤原魚名を先祖とし、関東地方東北地方などの地方における藤原氏の子孫として魚名流(奥州藤原氏足利氏伊達氏など)とも呼ばれる。下野守武蔵守鎮守府将軍である武門の棟梁藤原秀郷の三男。
経歴

父の秀郷が平将門の乱で功績をあげたため、朝廷で登用され平安京で活動する。康保4年(967年村上天皇の崩御に際して、伊勢固関使を務める。武蔵国では、前武蔵権介・平義盛と争ったこともある。これは、父・秀郷の築いた武蔵国における利権を巡る争いであったとされる[1]。この間、相模介などを務めるが、安和2年(969年)に起きた藤原北家嫡流による他氏排斥事件である安和の変で、前武蔵介であり武蔵国において対抗していた藤原善時に密告され、同じく前武蔵権守・前武蔵守を歴任し、武蔵国で対抗し、都においても対立する清和源氏の一族・源満仲源満季に追捕されて失脚、隠岐国流罪となった。以後の消息は不明。
系譜

尊卑分脈』による。

父:藤原秀郷

母:不詳

生母不詳の子女

男子:藤原久頼[2]

男子:藤原千清

男子:藤原正頼




藤原頼遠


脚注^ 『坂東武士団の成立と発展』野口実 2013年 戎光祥出版
^ 『朝日日本歴史人物事典』


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