凡例藤原 冬嗣
藤原冬嗣『前賢故実』より
時代平安時代初期
生誕宝亀6年(775年)
死没天長3年7月24日(826年8月30日)
別名閑院大臣
官位正二位、左大臣
贈正一位、太政大臣
主君桓武天皇→平城天皇→嵯峨天皇→淳和天皇
氏族藤原北家
父母父:藤原内麻呂
母:百済永継(飛鳥部奈止麻呂の娘)
兄弟真夏、冬嗣、秋継、桜麻呂、福当麻呂、長岡、率、愛発、大津、衛、助、収、恵須子、緒夏
藤原 冬嗣(ふじわら の ふゆつぐ)は、平安時代初期の公卿、歌人。藤原北家、右大臣・藤原内麻呂の次男[注釈 1]。官位は正二位・左大臣、贈正一位・太政大臣。閑院大臣と号す。 桓武朝では大判事・左衛士大尉を歴任する。平城天皇が即位した大同元年(806年)従五位下・春宮大進に叙任されると、大同2年(807年)には春宮亮に昇進する等、平城朝では皇太子・賀美能親王に仕える一方、侍従・右少弁も務めた。 大同4年(809年)賀美能親王の即位(嵯峨天皇)に伴って一挙に四階昇進して従四位下・左衛士督に叙任される等、春宮時代から仕えた側近として嵯峨天皇からの信頼が厚く、大同5年(810年)平城宮に移った平城上皇と尚侍・藤原薬子に対抗して、嵯峨天皇が秘書機関として蔵人所を設置すると、巨勢野足と共に初代の蔵人頭に任ぜられる。 同年9月に発生した薬子の変 (平城太上天皇の変)に伴い、長兄の参議・藤原真夏が失脚する。一方で、冬嗣は11月に従四位上に叙せられると、翌弘仁2年(811年)に参議に任ぜられ公卿に列す。弘仁3年(812年)10月に父の右大臣・藤原内麻呂が没すると同年11月に正四位下、弘仁5年(814年)には年齢は1歳上ながら桓武朝において異例の昇進を遂げ、冬嗣より10年近く早く参議となっていた藤原式家の緒嗣をも追い越し従三位に叙せられるなど、嵯峨天皇の下で急速に昇進する。しかし内麻呂の没後は、右大臣・藤原園人が藤原氏の氏上として一族および政権を統括しており、一介の参議であった冬嗣は対抗できる立場になかった[1]。 当時、嵯峨天皇の後宮には妃・高津内親王と夫人・橘嘉智子がおり、それぞれ業良親王と正良親王を儲けていた。血筋の面からは高津内親王が后として第一の存在であったが、嘉智子は類い希なる美貌の持ち主で嵯峨天皇から厚い寵愛を受けていた。ここで、高津内親王の廃妃が行われ、弘仁6年(815年)に橘嘉智子が立后するが、これについて、以下理由で冬嗣の策謀であったとする見方がある[1]。 嘉智子の立后後、冬嗣と嘉智子の連携を見て自身の出処進退を悟ったためか、藤原園人は平城朝から嵯峨朝にかけて積極的に行ってきた政策提言をほとんどやめてしまう[2]。一方で、冬嗣はその後、弘仁7年(816年)10月に文室綿麻呂を越えて権中納言に任ぜられると、わずか4ヶ月後の弘仁8年(817年)2月に中納言に抜擢される。
経歴
桓武朝・平城朝
嵯峨朝
冬嗣にとって、妻の藤原美都子を通じて、橘嘉智子は遠縁にあたる。
橘嘉智子の父である橘清友が既に没しており、外戚が堅固でなかった。
橘嘉智子の高祖母である県犬養橘三千代が、冬嗣の高祖父である藤原不比等と再婚しており、藤原氏と橘氏は縁戚関係にあった。
弘仁9年(819年)6月に冬嗣は藤原葛野麻呂を越えて大納言に任ぜられると、同年12月の右大臣・藤原園人の薨去により、台閣の首班に立ち、弘仁12年(821年)には右大臣に昇った[注釈 2]。嵯峨朝後半には『弘仁格式』(弘仁11年〔820年〕完成)や『内裏式』(弘仁12年〔821年〕完成)の編纂を主導し、嵯峨親政体制の構築に尽力した[5]。また、弘仁3年(812年)に父・内麻呂が没したのち、冬嗣は左近衛大将の官職を引き継いでおり軍事面でも中心的な立場にあった。
弘仁14年(823年)嵯峨天皇が淳和天皇に譲位するが、これに前後して冬嗣の次男・藤原良房と嵯峨天皇の娘・源潔姫の結婚と、冬嗣の娘・藤原順子の嵯峨天皇の皇子で新春宮の正良親王(のち仁明天皇)への入内が行われる。この嵯峨天皇家と冬嗣家の二重の婚姻、特に順子の入内は天皇家の外戚としての冬嗣の立場を確立するとともに、淳和天皇の言動に掣肘を加え、その外叔父である大納言・藤原緒嗣を抑えるものであったと考えられる[6]。 天長2年(825年)に淳和天皇の外叔父として藤原緒嗣が大納言から右大臣に昇進すると、冬嗣は左大臣に就任する。これは、天応2年(782年)に北家の藤原魚名が免官となって以来、43年ぶりの任官であった。
淳和朝