凡例藤原 兼通
時代平安時代中期
生誕延長3年(925年)7月15日(旧暦)一歳上の兄伊尹と同じ。
死没貞元2年11月8日(977年12月20日)
別名堀川(河)殿
諡号忠義公(漢風諡号)、遠江公(国公)
官位従一位、関白、太政大臣、贈正一位
主君朱雀天皇→村上天皇→冷泉天皇→円融天皇
氏族藤原北家九条流
父母父:藤原師輔、母:藤原盛子(藤原経邦の娘)
養父:藤原忠平
兄弟伊尹、兼通、安子、兼家、遠量、忠君、遠基、遠度、登子、源高明室、高光、愛宮、為光、尋禅、深覚、公季、?子、繁子、源重信室
妻昭子女王(元平親王の娘)[注釈 1]
大江皎子(大江維時の娘)
能子女王(有明親王の娘)[注釈 2]
平寛子(平時望の娘)
藤原有年の娘
子顕光、?子、時光、朝光、遠光、正光、婉子、親光、用光
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藤原 兼通(ふじわら の かねみち)は、平安時代中期の公卿。藤原北家、右大臣・藤原師輔の次男。官位は従一位・関白太政大臣、贈正一位。 天慶6年(943年)従五位下に叙爵し、天慶9年(946年)村上天皇の即位後に侍従に任ぜられる。天暦2年(948年)左兵衛佐、天暦9年(955年)左近衛少将と武官を歴任したのち、天徳4年(960年)従四位下・中宮権大夫兼春宮亮に叙任され、同母妹の中宮・藤原安子と所生の春宮・憲平親王に仕える。同年、村上朝の有力者であった父の右大臣・藤原師輔を失うが、それでも安子が村上天皇からの寵愛を深く受け、有力な皇嗣候補である憲平親王(冷泉天皇)・為平親王・守平親王(円融天皇)を儲けていたことから、師輔の遺児である伊尹・兼通・兼家の兄弟は政治上極めて有利な立場に立つ。 康保4年(967年)正月に蔵人頭兼内蔵頭に任ぜられるが、同年5月に村上天皇が崩御して甥の冷泉天皇が即位すると共に、蔵人頭を弟の兼家と交代する。なお、この年兼通は7年ぶりに昇叙されて従四位上に叙せられるが、兼家は一年の間に三度の昇叙を受けて一挙に従三位に昇っており位階面で先を越されてしまう。以降も、弟との官位の逆転状態が続き、これがのちまで続く、二人の不和の原因になったとされる。安和2年(969年)に兼通は従三位・参議に叙任され公卿に列すが、兼家は参議を経ずに正三位・中納言と昇進面で水をあけられた。これについては、子息の・正光が源高明の娘「中姫君」を娶っていたため[1]、安和の変の際に兄弟の中で唯一高明派とみなされて冷遇されたとする説がある。兼通は世間体を苦にして出仕を怠るようになると、そのために冷泉天皇に次いで即位していた円融天皇からも疎遠に思われるようになってしまっていた[2]。この間に長兄・伊尹は安和3年(970年)摂政右大臣、天禄2年(971年)太政大臣に昇る。翌天禄3年(972年)閏2月に兼通はようやく権中納言に進むが、兼家は権大納言兼右近衛大将と大臣の座を目前としていた[3] 同年8月ごろより伊尹は病に伏し、10月には危篤に陥って21日に辞意を示す上表を行った。それを知った兼通と兼家は早くも次の日には円融天皇の御前で後任を巡って口論を始める有様であった[4]。23日に伊尹の摂政辞任だけは認められる。しかし、天皇の本心は伊尹の後任として、兄弟の従兄にあたる右大臣・藤原頼忠を内覧に任じて親政を行う意向であり、実際に頼忠に内覧就任の意向を尋ねていたという[5]。 ここで、兼通はこの状況に乗ぜんと参内する。しかし鬼の間に居た天皇は、平素から疎んじていた兼通の姿を見ると別の間へ移ろうとした。そこで「奏上したき事があります」と言上し、天皇を座に留まらせた兼通は書を奉った。その手跡は天皇が幼い頃に亡くなった母后・安子のものであった。先に弟の兼家に摂関を奪われることを恐れていた兼通は、存命中だった妹の安子から「将来、摂関たることあれば、必ず兄弟の順序に従って補任すること」との書付を受け、この書を懐に入れて肌身離さず持っていたという。それを見た天皇は亡き母の遺命に従うこととしたという[6]。この『大鏡』に記載された逸話に関連して以下の考察が行われている。 まず、10月27日に兼通に対して内覧が許されると、11月1日の伊尹の薨去を経て、27日には兼通は権中納言から一挙に内大臣に引き上げられた。これら一連の経過を受けて、藤原済時は大納言を経ずに兼通が内大臣に就任したこと、この人事を行った円融天皇、更にはこれを止めなかった頼忠を強く非難している[4]。 なお、村上天皇・藤原安子の死去後に所生の皇女たちの後見を兼通が務めていた形跡があり、また兼通が守平親王(後の円融天皇)を養育していた藤原登子(兼通・安子らの妹、重明親王未亡人)と親しかった(兼通の息子の朝光は重明と登子の娘を娶っている)こと、円融天皇の元服後に直ちに娘を入内させた公卿は兼通だけであったことから、当初は皇位継承構想から外れていた守平・為平両親王の後見も兼通が務めていたとする見方もある(栗山圭子[8])。 明けて天禄4年(973年)2月に長女の?子を入内させ、7月には中宮とする。当時「中継ぎ」とみなされていた円融天皇への娘の入内を多くの貴族がためらった中で兼通だけが天皇の元服後程なく娘を入内させたこと、円融天皇の同母妹であった選子内親王を兼通が自邸の堀河殿に引き取って昭子女王・?子母娘が養育したとされる[9]ところは注目される[10]。天延2年(974年)には頼忠に代わって藤氏長者となり、正二位・関白太政大臣に叙任され、天延3年(975年)従一位に昇った。
経歴
弟・兼家との昇進争い
摂政就任
『親信卿記』において兼通の内大臣就任の背景として「前宮遺命」があったとする記述より[7]、「安子の遺命」は存在したものの、長兄の伊尹の摂関就任よりも以前に死去した安子が『大鏡』に書かれたような摂関の地位について意見を述べたとは考えにくい。実際の内容は自分を庇護してきた「兄」兼通への将来に関するものだった(倉本一宏)。
当時の皇統について、冷泉天皇の子孫が継承するものと認識されており、伊尹や兼家は冷泉天皇の弟妹に対しては冷淡な対応を取っていたのに対し、「安子の遺命」は兼通に他の皇子女の庇護を求めたものとする。安子の没後、本来皇位継承を想定されていなかった弟の守平親王が立太子されて円融天皇として即位した後も伊尹や兼家は円融天皇を「一代主」(中継ぎの天皇)とする認識を変えず娘を后にすることはなく、安子に守平(円融天皇)らを託された兼通だけが娘を入内させた(兼家の娘・詮子の入内は兼通の没後)。その結果、伊尹の死の直前に元服した円融天皇は母の遺命に従って自らを保護し続けた兼通を唯一の後見として関白に任じ、反対に冷泉上皇派とみなされた兼家は遠ざけられた(栗山圭子