藤原公則
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 凡例藤原公則
時代平安時代後期
生誕不明
死没不明
官位従四位下(または従四位上)、伊賀守
主君藤原道長
氏族藤原北家利仁流→文徳源氏
父母父:藤原伊伝、養父:源章経
兄弟公則、斎藤為延、斎藤則光、源兼宣
子公員、兼則、忠念
養子:則経
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藤原 公則(ふじわら の きんのり)は、平安時代後期の貴族藤原北家利仁流、民部少輔・藤原伊伝の子。官位は従四位下(または従四位上)、伊賀守
経歴

藤原道長家司を務め「近習」と呼ばれた[1][2]寛弘年間(1004年-1013年)に従五位下下野権守に叙任されると、以降は信濃守肥後守尾張守河内守駿河守伊賀守など、一条・三条・後一条・後朱雀・後冷泉の五朝に亘って受領を歴任。

信濃守在任時の長和2年(1013年)道長の外孫である敦成親王(後の後一条天皇)と敦良親王(後の後朱雀天皇)にそれぞれ馬を献上している[3]。また、関戸院[4]の預ともなっており、治安3年(1023年)には高野山参詣から帰途に着く際の道長を同院において饗応している[5]

そのほか、後朱雀朝の長久元年(1040年)には乱立する荘園に憂い、それを阻止すべく荘園の停止を朝廷に訴えるといった活動を行っている。これを契機として、同年の長久の荘園整理令を皮切りに数度に亘り荘園整理令が発令された。長久2年(1041年)三条の邸宅が焼亡の憂き目に遭っている[6]
官歴

長保2年(1000年) 4月1日:見中務丞[2]

寛弘元年(1004年) 10月8日:見民部丞[2]

時期不詳:従五位下

寛弘5年(1008年) 9月13日:見下野権守[7]

寛弘7年(1010年) 11月28日:従五位上(家司)[1]

寛弘9年(1012年) 8月11日:信濃守[8]

時期不詳:肥後守[9]

時期不詳:尾張守[10]

長元4年(1031年) 3月26日:見河内守[1]

長久2年(1041年) 2月26日:見駿河守[11]

永承4年(1049年) 9月10日:見伊賀守[12]

系譜

父:藤原伊伝


母:不詳

養父:源章経 - 源兼宣の子

生母不明の子女

男子:藤原公員(または公貞)

男子:藤原兼則

男子:忠念(坂戸禅師)

養子:藤原則経 - 実は藤原惟忠の子

河内守・源章経の養子となって源姓を称したといわれる。子息のうち公貞の系統が河内坂戸[13]を地盤として河内源氏に臣従し坂戸源氏と呼ばれたほか、則経の系統は利仁流の大族である後藤氏となった。
脚注^ a b c 『小右記』
^ a b c 『御堂関白記』
^ 『御堂関白記』長和2年4月19日条
^ 山城国摂津国の国境にあった離宮。
^扶桑略記』。
^ 『春記』長久2年2月26日条
^ 『御産部類記』
^ 『御堂関白記』
^ 『小右記』治安3年10月17日条
^ 『小右記』長元4年3月26日条
^ 『春記』
^ 『平安遺文』673
^ 現在の大阪府柏原市付近。

参考文献

高橋昌明「北国武士団の形成と領主制」『福井県史』通史編1(福井県

石ノ森章太郎画『マンガ日本の歴史12-傾く摂関政治と地方の社会-』(中央公論新社

宮崎康充編『国司補任 第四』続群書類従完成会、1990年


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