この項目では、御子左家、歌人の藤原俊成について説明しています。藤原頼長の家臣の図書允俊成については「図書允俊成
」をご覧ください。 凡例藤原 俊成
藤原俊成(菊池容斎・画、明治時代)
時代平安時代後期 - 鎌倉時代初期
生誕永久2年(1114年)
死没元久元年11月30日(1204年12月22日)
改名藤原顕広 → 俊成 → 釈阿
別名五条三位、五条三位入道
墓所京都府京都市伏見区深草願成町
官位正三位・皇太后宮大夫
氏族藤原氏(北家・御子左流 → 同勧修寺流 → 御子左流)
父母父:藤原俊忠 母:藤原敦家女
養父:藤原顕頼 養母:藤原忠子(姉)
兄弟藤原俊忠#系譜参照
妻美福門院加賀ほか
子藤原成家、藤原定家、建春門院中納言、後白河院京極局ほか
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藤原俊成歌碑「又や見む交野の御野の桜狩 花の雪散る春の曙」(枚方市)愛知県蒲郡市竹島園地の藤原俊成卿像。『吾妻鏡』(元暦二年二月十九日条)に竹谷・蒲形荘(現在の蒲郡市)の開発領主として「散位俊成」の名がある[1][2]
藤原 俊成(ふじわら の としなり)は、平安時代後期から鎌倉時代初期の公家・歌人。名は有職読みで「しゅんぜい」とも読む。藤原北家御子左流、権中納言・藤原俊忠の子。はじめ勧修寺流・藤原顕頼の猶子となり顕広(あきひろ)を名乗ったが、後に実家の御子左家に戻り、俊成と改名した。法名は釈阿。最終官位は正三位・皇太后宮大夫。『千載和歌集』の撰者として知られる。 10歳で父と死別し、鳥羽院近臣であった義兄 藤原顕頼の後見を得て国司を歴任したが、位階は18年間従五位下のまま停滞した。天承・長承期(1131?35年)、岳父藤原為忠が主催する2度の「為忠家百首」へ出詠するなど詠作を本格的に始め、保延4年(1138年)藤原基俊に師事。保延6・7年(1140・41年)には自らの不遇への悲嘆、出家への迷いなどを「述懐百首」に詠い上げる[3]。「久安百首」の詠進や部類を命じられるなど、崇徳天皇の知遇を得る一方、美福門院の乳母子である美福門院加賀[4]と再婚し、久安元年(1145年)以降、美福門院の御給により昇叙されるようになる[3]。 保元元年(1156年)7月の保元の乱により崇徳院歌壇が崩壊。保元4年(1159年)二条天皇が内裏歌会を再開したが、二条天皇は当時の「歌の家」であった六条藤家の藤原清輔を重用した[5]。仁安元年(1167年)俊成は念願の公卿(非参議)となり、翌年御子左流に復す[6]。その後「住吉社歌合」「廣田社歌合」などの社頭歌合の判者を務めるが[3]、安元2年(1176年)9月咳病悪化により出家する[7]。 安元3年(1177年)に藤原清輔が没し、治承2年(1178年)九条兼実と初めて会談[7]、九条家歌壇に師として迎えられ「右大臣家百首」などを詠進する。寿永2年(1183年)後白河院の院宣を受け、文治4年(1188年)第七勅撰集『千載和歌集』を撰進[3]、名実ともに歌壇の第一人者となった。文治5・6年(1189・90年)には皇大神宮・春日・賀茂・住吉・日吉の5社に百首歌を奉納(「五社百首」)[8]。建久4・5年(1193・94年)頃成立した「六百番歌合」(九条良経主催、俊成加判)では、六条藤家と御子左家の歌人たちがその威信をかけて激突した[8]。 正治2年(1200年)以降歌壇を形成した後鳥羽院の命により「正治初度百首」「千五百番歌合百首」等を詠進。建仁元年(1201年)和歌所寄人、建仁2年(1202年)「千五百番歌合」の春歌第三・四巻の判者を務める。建仁3年(1203年)後鳥羽院より九十賀宴を賜り、鳩杖・法服等を贈られる。元久元年(1204年)秋「祇園社百首」、11月10日「春日社歌合」と最後まで詠作を続け、同年11月30日91歳で生涯を閉じた。 家集に『長秋詠藻』『俊成家集(長秋草)』等があり、『長秋詠藻』は六家集の一つに数えられる。『詞花和歌集』以下の勅撰集に414首[9]が採録され、その数は貫之・定家に次いで歴代歌人3位である[10]。歌学書・秀歌撰に『古来風躰抄』『古今問答』『万葉集時代考』『正治奏状』『三十六人歌合』等がある。 歌風は「たかくすみたるを先として艶なるさまもあり」[11]、「やさしく艶に心も深くあはれなる所もありき」[12]と評されたように格調高く深みのある余情美を特徴とし、古歌や物語の情景・心情を歌に映し奥行きの深い情趣を表現する本歌取や本説取(物語取)などの技法を確立した。歌合の判詞の中で用いた「幽玄」「艶」は、歌道から能楽・茶道をはじめとする日本の芸能に影響を与え、中世を代表する美的理念となった[13]。また門下からは息子・定家をはじめ、寂蓮・俊成卿女・藤原家隆、後鳥羽院・九条良経・式子内親王など優秀な歌人が輩出し、指導者としても新古今歌風形成に大きな役割を果たした。
生涯