藤原伊周
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 凡例藤原 伊周
石山寺縁起絵巻』第3巻第1段より
時代平安時代中期
生誕天延2年(974年
死没寛弘7年1月28日[1]1010年2月14日
改名小千代(幼名)→伊周
別名帥内大臣、儀同三司
官位正二位内大臣
主君花山天皇一条天皇
氏族藤原北家中関白家
父母父:藤原道隆、母:高階貴子
兄弟道頼頼親、伊周、定子隆家原子隆円、頼子、御匣殿周家周頼藤原妍子女房、好親平重義
源重光の娘、源致明の娘
道雅藤原頼宗正室、周子、顕長
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藤原 伊周(ふじわらの これちか)は、平安時代中期の公卿藤原北家摂政関白内大臣藤原道隆嫡男(三男)。最高官位正二位内大臣

長徳の変によって解官・左遷されたのち後、第一皇子敦康親王の伯父であることを理由に本位に戻された。寛弘年間に勅命を被って准大臣(朝議に参加する時の席次は大臣の下、大納言の上)の初例を作り、「三公に准ず」という意味を込めて古代中国の官職名「儀同三司」を自称した。
経歴
誕生と急速な出世

天延2年(974年)藤原北家九条流大納言兼家の嫡男であった兵衛佐道隆と、内裏内侍であった貴子の間に生まれる。異母兄に「大千代君」の幼名を持つ道頼がいたため、小千代君と名づけられた。

学才の高さで知られた外祖父の高階成忠高階氏一族の教育によるものと想定されるが、伊周やその兄弟姉妹には当時の貴族に相応しい教養が身についており、特に伊周は文筆の才能に優れていた[2]

花山天皇治下の寛和元年(985年)12歳で元服従五位下叙爵。翌寛和2年(986年一条天皇即位式の日に昇殿を許され、ついで侍従左兵衛佐に任ぜられると、翌永延元年(987年正五位下左近衛少将、永延2年(988年従四位下、永延3年(989年)従四位上と武官を務めながら昇進する。

正暦元年(990年)5月に祖父兼家の跡を継いで父道隆が摂政に就任し、同年10月中宮に同母妹定子が立つ。同年中に右近衛中将・蔵人頭を経て、正暦2年(991年)正月に蔵人頭在任4ヶ月で参議に任ぜられて公卿に列すと、同年7月に従三位、9月には異母兄道頼とともに先任参議7名を超えて権中納言に昇進、さらに翌正暦3年(992年)には舅の源重光の譲りを受けて正三位権大納言に進み、道頼に先んじた。
父・道隆の強引な引き立て

その翌年の正暦5年(994年)7月に左大臣源雅信が没すると、8月に伊周は8歳年上の叔父道長ら3人の先任者を飛び越えて弱冠21歳で内大臣に昇進した。伊周の後任の権大納言は3歳上の異母兄道頼であった。このような強引な伊周への官位引き上げは、一条天皇の生母東三条院詮子(道隆の妹)を始めとして@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}朝野上下の不満を募らせる[要出典]。それは当時は表面化しなかったが、やがて道隆死後、人々の伊周への反発を招き、道長の政権奪取の素地を提供することになった[要出典]。

長徳元年(995年)2月初め、道隆は飲水病(糖尿病)が悪化して重態に陥るや、後任の関白に伊周を強く推し、3月8日に一条天皇はまず関白道隆が内覧を行い、次いで内大臣伊周に内覧させるように命じた。これに対して伊周は、自分は関白から内覧の業務を内大臣に委ねる旨を伝えられており、宣旨の内容がこれに反すると抗議した。これにより、翌日に改めて伊周をして文書内覧の宣旨を蒙らしめることに成功した。しかし、この時下された宣命で内覧について「関白病間」の語句があったのを、元は「関白病替」を望んでいた伊周は甚だ不満であったという。これを見た左少弁高階信順(伊周の母方の叔父)は、宣旨を作成した大外記中原致時に訂正を迫り、拒絶されている。これは一条天皇の不興をも買った[3]。また伊周は内覧として倹約令を出し衣服の裾の長さなど細部に至るまで厳しく制限を加えたため、公卿から批判の声が高く上がり、人々はその器量を疑ったと『栄花物語』は言う。同4月5日に伊周は関白と同等の待遇を意味する随身兵仗を賜るも、同10日に最大の後ろ盾である父を失う[3]
叔父・道長との政争

17日間にわたる関白の不在を経て、4月27日に道隆のすぐ下の同母弟である道兼が関白・氏長者に就いた。倉本一宏は、当時の族長権継承は天皇家も各氏族も兄弟継承が基本であり、さらに道兼が一条天皇の伯父・詮子の兄だったのに対し伊周は天皇の従兄弟・詮子の甥に過ぎずミウチの範囲に含まれなかったと述べる[3]。既に疫病に冒されていた道兼は拝賀のわずか7日後に死没し、後継の関白を巡る政争が伊周と道長の間に繰り広げられた。結局5月11日になって道長に文書内覧の宣旨が下り、翌月19日には道長が伊周を越えて右大臣に昇任、氏長者並びに天下執行の宣旨を獲得した。『大鏡』には、伊周が一条天皇の寵愛深い妹の中宮藤原定子を介し、御意を得ているのをかねてから快からず思っていた天皇の母の詮子が、夜の御殿に押し入り、渋る天皇を泣いて説得したと述べられている。道長が伊周より人柄も資質もはるかに優れていたこと、中関白家の権力への執着に対し[4][要出典]、東三条院詮子の聡明な判断であると『大鏡』は藤原氏列伝で評した。

7月24日に伊周と道長は陣座で氏長者の所領帳の所有をめぐって激しく口論、罵声が外まで聞こえて一座は恐れをなしたという。3日後には伊周の同母弟・隆家の従者が道長の従者と都の大路で乱闘し、8月2日には道長の随身秦久忠が隆家方に殺害される事態に発展[4]。同じころ、道隆の舅であった従二位高階成忠が道長を呪詛している噂も流れた。
長徳の変

長徳2年(996年)に発生した長徳の変は、正月16日、故太政大臣藤原為光四女に通う花山法皇を、自分の思い人の為光三女が目当てと誤解した伊周が隆家と謀って道すがら待ち伏せ、彼らの従者が放った矢が法皇の袖を突き通した一件に発端するといわれている[5]。当時は貴族の間で暴力事件は決して珍しいことではなかった[注釈 3]が、譲位したとは言え上皇に向けて矢を射掛けたという事件は政治問題化した。

道長は正月25日の県召除目で伊周の円座を撤する(出席をさせない?)ことを命じ、一件が世上の噂に上るのを待って上意を動かした。2月5日には一条天皇が検非違使別当だった実資に伊周邸、紀伊前司菅原董宣(伊周の家司)宅、及び右兵衛尉致光(伊周の郎等)宅の捜索を許可した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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