凡例藤原 伊勢人
時代奈良時代後期 - 平安時代初期
生誕天平宝字3年(759年)
死没天長4年3月13日(827年4月12日)
別名伊勢臣
官位従四位下、治部大輔
主君桓武天皇→平城天皇→嵯峨天皇→淳和天皇
氏族藤原南家
父母父:藤原巨勢麻呂
兄弟黒麻呂、長川、弓主、真作、今河、河主、川合、真書、伊勢人、貞嗣、瀧麿、主後、広河
妻不詳
子友永
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藤原 伊勢人(ふじわら の いせんど)は、平安時代初期の貴族。藤原南家、参議・藤原巨勢麻呂の七男[1]。官位は従四位下・治部大輔。 延暦15年(796年)かねてから一堂を建て観音を祀りたいと祈願していたところ、霊夢の託宣により鞍馬山に導かれ、同地に毘沙門天像が祀られているのを発見。さらに再度の霊夢により、観音と毘沙門天の同一なることを告げられ、これに深く感銘を受けて同地に伽藍を建立した。これが現在の鞍馬寺の起源となったと伝わる[2][3]。また同年に桓武天皇により造東寺長官に任命され、東寺を建立したともされている。同年阿波守を経て、延暦22年(803年)従五位下に叙爵。 延暦25年(806年)平城天皇の即位後間もなく安芸守として地方官に転ずる。大同3年(808年)斎宮頭に任ぜられ京官に復す。 大同4年(809年)嵯峨天皇の即位後に従五位上に昇叙され、翌弘仁2年(811年)右中弁に栄転するが、弘仁3年(812年)には早くも因幡守に転じている。弘仁11年(820年)正五位下、弘仁13年(822年)従四位下と嵯峨朝末になってから俄に昇叙された。 淳和朝の天長4年(827年)3月13日卒去。享年69。最終官位は散位従四位下。 性格は几帳面で政務に熟練していた。小作人のような洗練されていないところがあり、やや世情に疎かった。勤務に精励したが、極めて寛容さに欠け、同僚を困らせることがあったという[1]。 注記のないものは『六国史』による。 『尊卑分脈』による。
経歴
人物
官歴
@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}延暦15年(796年) 日付不詳:阿波守。造東寺長官[要出典]
延暦22年(803年) 日付不詳:従五位下
延暦25年(806年) 4月12日:安芸守
大同3年(808年) 5月9日:斎宮頭
大同4年(809年) 2月13日:斎宮頭。9月1日:従五位上
弘仁2年(812年) 正月29日:右中弁
弘仁3年(813年) 8月1日:因幡守
弘仁11年(820年) 正月7日:正五位下
弘仁13年(822年) 正月7日:従四位下
時期不詳:治部大輔[4]
天長4年(827年) 3月13日:卒去(散位従四位下)
系譜
父:藤原巨勢麻呂
母:不詳 - 出自は不明だが、『尊卑分脈』によると川合・真書・伊勢人は同母兄弟であるとされる。
妻:不詳
生母不明の子女
男子:藤原友永
脚注^ a b 『日本後紀』天長4年3月13日条
^ 『鞍馬蓋寺縁起』
^ ⇒鞍馬寺ホームページ 歴史
^ 『尊卑分脈』
出典
森田悌『日本後紀』(上中巻)講談社学術文庫、2006年
『尊卑分脈 第二篇』吉川弘文館、1987年
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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