藤原京
[Wikipedia|▼Menu]
.mw-parser-output .hatnote{margin:0.5em 0;padding:3px 2em;background-color:transparent;border-bottom:1px solid #a2a9b1;font-size:90%}

「藤原京」のその他の用法については「藤原京 (曖昧さ回避)」をご覧ください。
藤原京の復元模型(橿原市藤原京資料室所蔵)。南側から見る藤原宮 大極殿院閤門跡列柱は実際位置から南30メートルで標示。奥に大極殿跡(樹叢)。

藤原京(ふじわらきょう)は、飛鳥京の西北部、奈良県橿原市明日香村にかかる地域にあった飛鳥時代都城[1]壬申の乱により即位した天武天皇の計画により日本史上で初めて風の条坊制が用いられた。平城京に遷都されるまでの日本の首都とされた。

日本書紀』などの正史には「新たに増した京」という意味の新益京[注釈 1](あらましのみやこ、あらましきょう、しんやくのみやこ、しんやくきょう)などの名で表記されている[2]。藤原京という名は、大正2年(1913年)に藤原京研究の先駆となった喜田貞吉が『藤原京考証』という論文において使った仮称が、その後の論文などで多用され定着したもので[注釈 2][2]、当時の皇居が『日本書紀』で藤原宮と呼ばれていることから飛鳥京と同様に名づけられた学術用語である。本項ではこの藤原宮についても述べる。
概要藤原宮 大極殿跡

『日本書紀』の天武天皇5年(676年)に天武天皇が「新城(にいき)」の選定に着手し、その後も「京師」に巡行したという記述がある。これらの地が何処を指すのかは明確な結論は出ていないが、発掘調査で発見された規格の異なる条坊などから、藤原京の造営は天武天皇の時代から段階的に進められたという説が有力である[3]

天武天皇の死後に一旦頓挫した造営工事は、その皇后でもあった後継の持統天皇4年(690年)を境に再開され[注釈 3]、4年後の694年飛鳥浄御原宮倭京[注釈 4]から宮を遷し[注釈 5]藤原京は成立した[4]。以来、宮には持統・文武元明の三代にわたって居住した。

それまで、天皇ごと、あるいは一代の天皇に数度の遷宮が行われていた慣例から3代の天皇に続けて使用された宮となったことは大きな特徴としてあげられる[5]。この時代は、刑罰規定の律、行政規定の令という日本における古代国家の基本法を、飛鳥浄御原(あすかきよみはら)令、さらに大宝律令で初めて敷いた重要な時期と重なっている。政治機構の拡充とともに壮麗な都城の建設は、国の内外に律令国家の成立を宣するために必要だったと考えられ[5]、この宮を中心に据え条坊を備えた最初の宮都建設となった。藤原京に居住した人口は、京域が不確定なため諸説あるが、小澤毅による推定では4 - 5万人と見られている。その多くは貴人や官人とその関係者や、夫役として徴集された人々、百姓だった[2]。自給自足できる本拠地から切り離された彼らは、食料や生活物資を外界に依存する日本初の都市生活者となった[6]

708年和銅元年)に元明天皇より遷都の勅が下り、710年(和銅3年)に平城京に遷都された。藤原宮の遺構からは、平城遷都が決まる時期に至っても朝堂を囲む回廊区画の工事が続いていたことを示す木簡が出土しており、藤原京が未完成のまま放棄された可能性を示唆している[7]。その翌年の711年(和銅4年)に、宮が焼けたとされている(『扶桑略記』、藤原宮焼亡説参照)。
藤原京の範囲・構造藤原京 朱雀大路跡北方に藤原宮跡を望む。後背は耳成山

藤原京は岸俊男などによる研究初期の想定では、大和三山(北に耳成山、西に畝傍山、東に天香久山)の内側にあると想像され、12条8坊からなる東西2.1km、南北3.2km 程度の長方形で、藤原宮は中央よりやや北寄りにあったと考えられていた[4]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:43 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef