藤原ダム
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藤原ダム

所在地左岸:群馬県利根郡みなかみ町大字藤原
右岸:群馬県利根郡みなかみ町大字藤原
位置北緯36度48分16秒
東経139度01分12秒
河川利根川水系利根川
ダム湖藤原湖
ダム諸元
ダム型式重力式コンクリートダム
堤高95.0 m
堤頂長230.0 m
堤体積415,000
流域面積401.0 km²
湛水面積169.0 ha
総貯水容量52,490,000 m³
有効貯水容量35,890,000 m³
利用目的洪水調節不特定利水発電
事業主体国土交通省関東地方整備局
電気事業者東京電力リニューアブルパワー
発電所名
(認可出力)藤原発電所
(21,600kW)
玉原発電所
(1,200,000kW)
施工業者西松建設
着手年/竣工年1951年/1959年
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藤原ダム(ふじわらダム)は群馬県利根郡みなかみ町藤原地先、一級河川利根川本川上流部に建設されたダムである。

国土交通省関東地方整備局が管理する堤高94.5mの重力式コンクリートダムで、利根川の治水首都圏への利水を司る利根川上流ダム群の一つであり、最初に建設されたダムでもある。利根川水系に建設された多目的ダムでも五十里ダム(男鹿川)に次いで古い。ダム湖は藤原湖(ふじわらこ)と呼ばれ、奥利根湖(矢木沢ダム)・洞元湖(須田貝ダム)と共に奥利根三湖を形成する。目次

1 沿革

2 補償交渉

3 目的

4 藤原・玉原発電所

5 再開発事業

6 観光

7 関連項目

8 参考文献

9 外部リンク

沿革

ダムが建設された藤原集落付近は、戦前より群馬県による「利根川河水統制計画」や逓信省東京電燈(後に日本発送電)による「奥利根電源開発計画」によって既にダム計画が持ち上がっていた。当時は現在の地点より上流、宝川が合流する幸知地点に高さ50m級のダム計画が進められていた。同時に現在の矢木沢ダム・須田貝ダム地点にもダムが計画されており、この頃より既に利根川上流の三ダム計画が形を変えながらも構想されていた。だがこの構想を一変させたのが1947年(昭和22年)のカスリーン台風である。

江戸幕府利根川東遷事業以降、利根川は大規模な河川改修が継続して行われていたが水害も度々発生し関東平野に被害を与えていた。明治以降も1937年(昭和14年)の「利根川改修増補計画」など河川改修は継続して行われたがカスリーン台風はその努力を嘲うかのように利根川に過去最悪の洪水をもたらした。埼玉県北埼玉郡大利根町(現加須市)付近で破堤した利根川の濁流は江戸川沿いに南下、遂に首都・東京都内にまで流入し敗戦でのダメージを更に倍加させた。これを機に利根川の治水対策は全面的な再検討を迫られたが、当時全国各地でも水害が頻発し政府は本腰を入れて治水対策に臨まねばならなくなった。

1949年(昭和24年)経済安定本部の諮問機関・河川調査会は全国主要10水系に対し物部長穂が提唱した河水統制計画に基づく多目的ダム建設を柱とした「河川改訂改修計画」を答申、強力な河川総合開発を求めた。当然利根川も対象となり、これを受け建設省関東地方建設局(現・国土交通省関東地方整備局)は利根川水系に九基のダムを建設する「利根川改訂改修計画」を1952年(昭和27年)に立てた。利根川本川に三基、鬼怒川流域に二基、赤谷川・吾妻川・片品川・神流川の水系主要河川にダムを建設し、利根川の洪水調節のほか戦後深刻さを増していた電力需要の補給、更に食糧増産の為のかんがい用水確保を図ろうとした。その第一号として建設が計画されたのが藤原ダムである。
補償交渉

既に1948年(昭和23年)から3年を掛けて予備調査が行われ、地質や地盤等を調べた後に1951年(昭和26年)より本格的な建設事業に着手する事になった。だが、水没する旧水上町藤原集落は当初はダム建設に対して理解を示す面を見せていたが、その後予想以上に水没面積が大きいことが判明すると一転して強固な反対姿勢を見せた。当初の説明と食い違う水没面積に住民は建設省に対して不信を示し、「首都圏の治水・利水の為に自分達が犠牲になる事が納得出来ない」として建設省との対決姿勢を鮮明にした。

建設省との補償交渉は全くの平行線をたどるどころか日を経る毎に険悪さを増し、一時は膠着化の恐れもあった。最終的には地元・群馬県知事の斡旋もあって1957年(昭和32年)3月には補償交渉も概ね妥結した。その後建設工事は進展し1959年(昭和34年)に全事業は完成するに至った。だが、ダム建設によって先述の藤原集落159戸がダム湖である藤原湖の底に沈む事になり、首都圏発展の尊い犠牲となった。
目的

ダムの目的は第一に利根川の洪水調節である。利根川の過去最大の洪水流量(この場合はカスリーン台風が基準となる)である計画高水流量を治水基準点である伊勢崎市八斗島地点において他の利根川上流ダム群と共に毎秒17,000トンから毎秒14,000トンへと抑制(毎秒3,000トンの洪水量カット)させることが最大の目的となる。ダム地点では毎秒1,270トンの計画高水流量を600トンに半減(毎秒670トンの洪水量カット)させる。また利根川流域の農地に慣行水利権分の農業用水を補給するため、これもまた他の利根川上流ダム群と合わせて埼玉県久喜市地点において毎秒140トンを補給する不特定利水目的も有する。

こうしたことからダムの管理については単独ではで行わず、前橋市にある国土交通省関東地方整備局・利根川ダム統合管理事務所によってダム群が連動した系統的な管理が行われている。敷地内には「利根川ダム資料館」もありダムの役割や働きを学習する事も出来る。利水については当時日本発送電が分割されて発足したばかりであった東京電力による水力発電(後述)が目的であり、新規開墾農地への用水補給を図るかんがい上水道工業用水道供給は目的に入っていない。これは当時治水を最重要課題として河川改修を実施していたためであるが、厳密には首都圏の水がめというわけではない。だが、首都圏の経済活動に重要なダムであり、夏季渇水の時期になると天気予報などで貯水率の動向が報道される。
藤原・玉原発電所

水力発電に関しては東京電力により藤原発電所(認可出力21,600kW)が完成当時より稼働しているが、オイルショックによる原油価格高騰を機にそれまで火力発電が主力だった発電事業において水力発電が再評価され、火力・原子力発電と連携した発電が行える揚水発電を中心とした新たなる電源開発が全国的に盛んになった。東京電力は包蔵水力の割りに未開発部分が多い利根川水系の水力発電に注力し、その中で沼田市上発地町玉原地点を新規電源開発地点に定めた。これが1973年(昭和48年)より建設事業がスタートした玉原発電所であり、薄根川の右支川である発知川に玉原ダムロックフィルダム・堤高116.0m)を建設。ダムによって出来る玉原湖を上池、藤原湖を下池とする利根川水系では初の純揚水式発電所を計画した。

これ以前の揚水発電は主に河川の自然な流水を利用した「自流混合式揚水発電」(矢木沢ダムの矢木沢発電所はこの方式)か、純揚水式の場合では発電専用ダムを同時に二基建設して揚水発電を行うという方法(後に建設される神流川発電所はこの方式)を採っていた。発電用以外のダムに後から純揚水式発電を付加した例で見れば、電源開発沼原発電所那珂川栃木県)や関西電力喜撰山発電所淀川京都府)がある。

だが下池に擬された藤原ダム・藤原湖を管理する建設省は東京電力が求めた藤原湖の発電用水利権申請(玉原発電所用)を却下した。既に利根川水系ダムの中核的存在として稼働している藤原ダムの貯水池を揚水発電のために新規に利用するということは既に設定されている有効貯水容量を大幅に変更することになる。即ち洪水調節容量やかんがい容量の大幅な変更が不可欠となるが、藤原ダムは他の利根川水系ダム群と総合管理を行っているため、安易に変更を行うと利根川の治水計画全体に影響を及ぼす。従って治水を最優先に行うのが多目的ダムである藤原ダムの目的である以上、洪水調節容量の確保に影響を与える新規利水の水利権申請は容易に許認可できるものではなかったのである。


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