藤井 秀悟大阪ゼロロクブルズ 監督 #23
2023年9月6日
基本情報
国籍 日本
出身地愛媛県伊予市
生年月日 (1977-05-12) 1977年5月12日(47歳)
身長
体重175 cm
86 kg
選手情報
投球・打席左投左打
ポジション投手
プロ入り1999年 ドラフト2位(逆指名)
初出場2000年4月1日
最終出場2013年8月24日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
愛媛県立今治西高等学校
早稲田大学
ヤクルトスワローズ
東京ヤクルトスワローズ (2000 - 2007)
北海道日本ハムファイターズ (2008 - 2009)
読売ジャイアンツ (2010 - 2011)
横浜DeNAベイスターズ (2012 - 2014)
監督・コーチ歴
06BULLS
大阪ゼロロクブルズ (2022 - )
国際大会
代表チーム 日本
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藤井 秀悟(ふじい しゅうご、1977年5月12日 - )は、愛媛県伊予市出身の元プロ野球選手(投手)、コーチ、監督。左投左打。 伊予市立北山崎小学校2年時に地元伊予市の港南リトルリーグで野球を始める。伊予市立港南中学校時代は松山市のボーイズリーグに所属していた[1]。1993年に愛媛県立今治西高等学校へ入学する。「伊予の怪腕」と呼ばれ、同年夏の全国高等学校野球選手権愛媛大会決勝で、平井正史を擁する宇和島東と対戦するが3-5で敗れる。1995年の第67回選抜高等学校野球大会には4番・エース・主将として臨んだ。準々決勝、鶴岡一成を擁する神港学園高校戦で、1点リードしている9回表の投球中に左肘内側側副靭帯を損傷し降板。その試合は逆転を許した後の9回裏二死での藤井の同点タイムリーもあり延長13回サヨナラで勝つが、準決勝は登板出来ず澤井良輔を擁する銚子商業高校の前に敗退した。同年夏の愛媛大会も怪我で登板出来ず、松山商業高校に4-5で敗れた。この時は一塁手として出場していた。 1996年に早稲田大学人間科学部に進学。1年秋の早慶戦で救援登板すると初勝利。三澤興一が卒業後の1997年の2年時からはエースとして活躍した。1999年の4年春、1年下の鎌田祐哉と左右の両輪で11季ぶりの六大学春季リーグ戦優勝に貢献。大学選手権では準々決勝の立命館大戦で先発し9回二死まで無失点に抑えたが同点に追いつかれて、鎌田へ繋ぐと延長の末に辛勝。決勝の2年生左腕石川雅規擁する青山学院大戦では鎌田を救援するが敗れた。東京六大学リーグでは通算48試合登板で24勝10敗、防御率1.91、249奪三振の好成績を残す。ただし在学中チームのリーグ優勝は僅かに一度に終わるなど不遇な面があった。2年秋にはベストナインに選ばれた。当時、日本生命硬式野球部で活躍していた福留孝介とは高校2年の冬休みに第1回AAAアジア野球選手権大会日本代表選出され渡辺元智監督の期待に応え第1回AAAアジア野球選手権大会優勝に貢献して以来の親友。1999年のドラフト会議で、ヤクルトスワローズから2位指名(逆指名)を受けて入団。 2000年は全てリリーフで31試合に登板。4月29日の対読売ジャイアンツ戦でプロ初勝利を挙げた。本人はアマチュア時代から担当していた先発に意欲を持っていたが、当時自身が投げれた目立った球種がカーブしか無く、正捕手の古田敦也からも先発をしたいなら球種を増やせと言われ、この年まで同僚だったジェイソン・ハッカミーからチェンジアップを教わり、オフにテスト入団で来た島田直也からはスライダーを教わった[2]。
経歴
プロ入り前
ヤクルト時代