藤井栄治
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藤井 栄治基本情報
国籍
日本
出身地大阪府堺市
生年月日 (1940-02-01) 1940年2月1日(84歳)
身長
体重172 cm
77 kg
選手情報
投球・打席右投左打
ポジション外野手一塁手
プロ入り1962年
初出場1962年4月7日
最終出場1978年10月19日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴


大阪府立登美丘高等学校

関西大学

阪神タイガース (1962 - 1973)

太平洋クラブライオンズ (1974 - 1976)

阪急ブレーブス (1977 - 1978)

監督・コーチ歴


西武ライオンズ (1979 - 1981)

近鉄バファローズ (1982 - 1984)

阪神タイガース (1988 - 1989)

近鉄バファローズ (1993)

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藤井 栄治(ふじい えいじ、1940年2月1日 - )は、大阪府堺市出身の元プロ野球選手外野手一塁手)・コーチ監督解説者評論家

無口でいつも表情を変えないことから、「鉄仮面」のあだ名で呼ばれていた。

セントラル・リーグにおける、外野手の最多連続守備機会無失策記録保持者。
経歴
プロ入り前

登美丘高校では投手であったが、関西大学進学後は打力を買われて打者に転向。関西六大学野球リーグでは1年次の1958年秋季リーグから出場し、2年次の1959年春季リーグからレギュラーに定着すると、在学中は3度の優勝に貢献。リーグ通算68試合に出場し、213打数64安打、打率.300、0本塁打、29打点を記録。4年次の1961年春季リーグには首位打者を獲得し、その直後の大学日本選手権ではエース・村瀬広基を擁して決勝に進出するが、日大宮田征典に抑えられて敗退。
現役時代

大学卒業後の1962年阪神タイガースへ入団。東京六大学出身の安藤統夫室山皓之助が同期で、ライバル心を燃やす。開幕戦から右翼手として起用され、4月11日広島戦(甲子園)で大石清から適時打を放って初安打・初打点、5月3日中日戦(中日)で柿本実から初本塁打を記録。この時の試合は、3対1のリードで迎えた7回表に藤井がダメ押しとなるソロ本塁打を放ち[1]、投げては、先発の石川緑が古巣相手に4安打1失点の完投で移籍後初勝利を挙げた[1]。左中間に伸びる二塁打の多い打撃と勝負強さを武器に活躍し、2リーグ分裂後初のリーグ優勝に貢献。東映との日本シリーズでは全7試合に5番打者として出場。10月14日の第2戦(甲子園)で土橋正幸富永格郎から3安打、同21日の第7戦(甲子園)では延長10回に土橋から同点打を放つなど34打数11安打5打点と活躍。

外野守備にも優れ、1963年には13補殺を記録。鎌田実によれば、二塁走者がいる時はわざと打球をライトを守る藤井の所に抜けさせ、本塁を突いた走者を藤井の送球でアウトにしていたほどであった。セ・リーグの外野手最多連続守備機会無失策記録の保持者でもあり[2]パ・リーグ移籍後も820機会まで継続し、2014年楽天聖澤諒に更新されるまでのNPB記録であった[3]

2年目の1963年には自身唯一のベストナイン(外野手部門)に選出され、自身初の打率.300でリーグ7位にランクイン。同年から1965年まで3年連続でオールスターゲームに出場し、その間の1964年には2年ぶりのリーグ優勝に貢献。南海との日本シリーズでは、10月4日の第3戦(大阪)でジョー・スタンカから2本塁打を放つ。

1966年もリーグ10位の打率.281と活躍し、1967年6月18日サンケイ戦(甲子園)で鈴木皖武から初の満塁本塁打、9月10日巨人戦(甲子園)で中村稔から初のサヨナラ本塁打を放つ。

1968年にはウィリー・カークランドの入団で中堅手にコンバートされ、1969年9月17日のアトムズ戦(甲子園)で1000試合出場を達成し、3打数2安打1打点の活躍であった。

1970年にはフレッド・バレンタインが入団したほか、一時期は田淵幸一の外野コンバートなど球団の若返り策で守備位置を奪われるが、1971年6月22日の広島戦(甲子園)で西川克弘から1000本安打を達成。

大学の先輩である村山実選手兼任監督と懇意であったため、村山引退後は後任の金田正泰監督との確執が生じる。1973年の春季キャンプでは片手捕球をしたことをナインの前で酷評され、激怒して詰め寄り途中で帰り、金田との溝が深まった。このような確執から、1974年阿部良男との交換トレードで太平洋クラブライオンズへ移籍。藤井が自ら移籍を志願し、かつて阪神のマネージャーであった青木一三代表が獲得に動いた[4]

移籍1年目は指名打者一塁手も兼ね90試合に先発出場。同年オフに行われたメッツとの日米野球では太平洋・巨人連合チームに選出され、11月16日の第15戦(平和台)に6番・左翼手で先発出場。長嶋茂雄王貞治末次利光の次を任され、トム・シーバーから3打数2安打を記録してチームの勝利と日本の6勝目に貢献。1976年4月22日日本ハム戦(平和台)に楠城徹の代打で起用され、1500試合出場を達成。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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