「藤原フミヤ」とは別人です。
藤井 フミヤ
2024年、芸術選奨贈呈式にて
基本情報
出生名藤井 郁弥(読み同じ)
別名Hellow Fujii
生誕 (1962-07-11) 1962年7月11日(61歳)
出身地 日本・福岡県久留米市
学歴久留米市立南筑高等学校卒業
ジャンルJ-POP
ロック
職業元国鉄職員
シンガーソングライター
俳優
CGアーティスト
プロデューサー
タレント
会社役員
担当楽器ボーカル
ギター
ブルースハープ
活動期間1983年 -
レーベルポニー・キャニオン、ソニー・ミュージックアソシエイテッドレコーズ、Chaya-zaka Records
事務所株式会社FFM
共同作業者藤井尚之(実弟)
チェッカーズ
F-BLOOD
公式サイトFumiya Fujii official web site
藤井フミヤ
YouTube
チャンネル
藤井フミヤ Fujii Fumiya
活動期間2019年 -
ジャンル音楽
登録者数約5.96万人
総再生回数約2540万回
チャンネル登録者数・総再生回数は
2023年5月14日時点。
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藤井 フミヤ(ふじい フミヤ、本名及び旧芸名:藤井 郁弥(読み同じ)、1962年〈昭和37年〉7月11日 - )は、日本のシンガーソングライター、俳優・タレント。元チェッカーズのリードボーカル。福岡県久留米市出身。所属事務所はヤマハ音楽振興会、スリースタープロ(共にチェッカーズ時代)を経て、現在は個人事務所の株式会社FFM。
弟は元チェッカーズのサックスプレイヤーでミュージシャンでタレントの藤井尚之。長男はフジテレビアナウンサーの藤井弘輝[1]。 鳥栖駅長などを歴任した国鉄職員の父と美容師の母のもとに長男として出生。中学生の頃、キャロルに出会い音楽を始める[2]。 久留米市立南筑高等学校卒業後、日本国有鉄道門司鉄道管理局(現:九州旅客鉄道)に就職し、鳥栖駅で半年間の見習期間の後、早岐駅構内係として貨物列車の操車・入換業務に従事。労働組合は国鉄労働組合(国労)に所属した[3][4]。 国鉄退職後の1983年にチェッカーズのリードボーカルとしてデビュー、数多くのヒットを飛ばした。歌唱力のみならず外見や言動も注目され、彼の先進的なファッションを真似する若者が増加した。また、オリジナル作品をシングルとして発売した以降の殆どの作詞を担当し、楽曲製作の中心的存在となった。上京するにあたり、父親と親戚一同の猛反対を受けたことで長男たる自身に代わって弟の尚之を(藤井家の跡取りとして)久留米に置いていかなければならない窮地に陥ったときに、母親が間に入り説得したため、兄弟共々上京することができたという[5]。 1992年にチェッカーズは解散、翌1993年から「藤井郁弥」を「藤井フミヤ」に改め、ソロ活動を開始した。解散当初、当時ロサンゼルス在住の屋敷豪太の誘いで渡米。同じくロス在住の鈴木賢司に選んでもらい、ギブソンのギター「B-25」を購入。これを用いて最初に作曲された曲が『TRUE LOVE』である[6]。同年リリースしたこの曲が240万枚[7]、1996年リリースした『Another Orion』が120万枚[7]を超えるセールスを記録。 1993年から音楽活動と並行し、時代に先駆けてパソコンで制作したCG画を発表[8]。「FUMIYART(フミヤート)」名称で個展を開催したり[9]、愛・地球博の名古屋市パビリオン『大地の塔』をプロデュース(世界最大の万華鏡としてギネスブック認定)[注釈 1]したりと、幅広く活躍する[10]。数多くのテレビドラマにも出演。 楽曲提供は、猿岩石の『白い雲のように』(作詞。作曲は弟の尚之)や、MISIA『星空の片隅で』(作詞・作曲)などがある。吉川ひなの『ハート型の涙』を始めとする4曲では楽曲プロデュースも兼任[11]。 地域への協力も数多く、出身地の福岡県久留米市へ市歌『ふるさとのささやき ?新久留米市の歌?』の作曲[注釈 2]、くるめ市民カードのデザイン提供、福岡放送のロゴマーク作成、母校久留米南筑高校の制服デザインなどがある[12]。また、地元福岡県のプロ野球球団福岡ソフトバンクホークスの応援歌『勝利の空へ』を生で歌うため、毎年開幕頃(スケジュールによる)は試合観戦に福岡 paypayドームを訪れている。なお、敗戦の場合は観戦だけである[要出典]。 1997年10月1日、鹿児島県で初開局となったコミュニティFMの鹿児島シティエフエムの愛称・FRIENDS FM 762はフミヤにより名付けられた[13]。フミヤはジングルにも登場し「オレのFM、キミのFM、フレンズFM762(フレンズエフエム ななろくに)」とアナウンスしている[14]。そして取締役にも就任している[要出典]。同年実弟・尚之と「F-BLOOD」を結成。その後時折楽曲リリースやライブ活動などを行っている。 長野オリンピック冬季大会のカウントダウンTシャツのデザインを手がける。1998年の大会当日までの残りの日数を刻んだTシャツで、フミヤは500 - 401日前までのデザインを担当[15]。 2007年、第62回神宮式年遷宮の奉賛曲『鎮守の里』を作詞・作曲した。シングル『君になる』に収録。伊勢市に3日間滞在し宇治橋のそばの五十鈴川の河原で作曲した[16]。 2008年12月31日、日本武道館で行われたカウントダウン・ライブで、チェッカーズ時代とF-BLOOD名義、そしてソロを含む通算公演回数が、矢沢永吉と歴代1位タイの102回になった[17]。それを受け、「音楽を始めたきっかけが(矢沢を擁する)キャロルだったので、その矢沢さんと武道館のステージに立った回数が並んだ事はすごく光栄です」と語っている[17]。
略歴