薬師寺保栄
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出典検索?: "薬師寺保栄" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2010年10月)

薬師寺 保栄基本情報
通称薬ちゃん
階級バンタム級
身長173cm[1][リンク切れ]
国籍 日本
誕生日 (1968-07-22) 1968年7月22日(55歳)
出身地大分県津久見市
プロボクシング戦績
総試合数28
勝ち24
KO勝ち16
敗け3
引き分け1
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薬師寺 保栄(やくしじ やすえい、1968年7月22日 - )は、元プロボクサータレント俳優ボクシング解説者。大分県津久見市出身。2歳から4歳まで徳島県池田町に住んでいた。愛知県小牧市育ち。現役時は松田ボクシングジム所属。元WBC世界バンタム級王者で4度王座を防衛した。また、日本人で初めて団体内王座統一戦(正規王座と暫定王座)に勝利したボクサーでもある。
来歴

アマチュアボクサーであった父親の影響でボクシングを始め、享栄高校時代はインターハイのフライ級に出場し、ベスト16の成績を残した。高校1年の時にテレビで見たトーマス・ハーンズに憧れ己のファイトスタイルに取り入れた。高校卒業後の1987年、享栄高校の2年先輩で日本王座獲得して間もない畑中清詞が属する、名古屋市松田ボクシングジムに入門。同年7月にプロデビューを果たした。

デビュー当時は「打ってはすぐに退いてしまう」スタイルから「臆病者」と称された。デビュー6戦目までの戦績は3勝(1KO)2敗1分と平凡なもので、中日本フライ級新人王こそ獲得したものの、周囲からは「将来、世界どころか日本王者にすらなれない」と酷評されていた。

1989年成人式の1月15日に暴走族時代の後輩達と並走しているところを愛知県警察に発見され、3月1日道交法違反(共同危険行為)で通常逮捕され16日間勾留された。日本ボクシングコミッションから6か月間の対外試合禁止処分を受けたが、その間に東南アジアに遠征した。 

1990年6月、北海道で米坂淳と対戦。最終10回にKO勝ちを収めるも、試合後に米坂が意識不明の重体に陥り、数日後に死亡。対戦相手の生命を奪ってしまった罪悪感から一時は引退も考えたが、「彼の分まで、という考えはなかったけれど、このままオレがダメになったら、もっとダメだし…[2]」とリングに上がり続けることを決意。その後、米国ロサンゼルスに渡り、ここで日系人トレーナーのマック・クリハラと出会う。

1991年6月、尾崎恵一(オサム)を9回KOし、日本バンタム級王座を獲得。12月には中谷幸男(大鵬)を初回KOで下し初防衛、その後王座を返上した。

1993年12月23日、世界初挑戦。左眼網膜剥離で11月に予定していた世界戦をキャンセルした辰吉丈一郎の代役として、WBC世界バンタム級王者辺丁一韓国)に挑み、12回判定勝ち。世界王座奪取に成功した。しかしこの試合は国内で酷評を受け、翌日の日刊スポーツでは、「薬師寺特攻奪取」との見出しを組みながらも、「すべての面で辺が上」「ジャパンマネーが判定に影響か」と痛烈に書いている(日刊スポーツ・93/12/24)。辺陣営も判定に猛抗議と再戦を要求し、翌年7月に2度目の防衛戦で再戦。この時は5度のダウンを奪った末の11回TKO勝ちを収めた。

1994年12月4日、3度目の防衛戦でWBC世界バンタム級暫定王者に復帰した辰吉と対戦。フルラウンドに渡る激闘の末、2-0の判定で王座防衛に成功した。

その後、4度目の防衛にも成功するが、1995年7月30日、愛知県体育館で行われた5度目の防衛戦でウェイン・マッカラーイギリス北アイルランド)に12回判定負け(1-2)を喫し、王座陥落。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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